知の連想ゲーム(2)

最近見た本に竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)がある。この著者は「教養主義の没落」で馴染みのある名前だったのでついつい見てしまった。しかし、書いてある内容はあまり新鮮味はなく、どちらも似たり寄ったりで重複する内容も多いという印象である。人間なんて、そんなに急に変わるものではないし、多くの本と同じく、昔のネタにいろいろ手を加えながら商売していることがよくわかるようである。

その「第1章 全共闘の時代」の部分に、「社会学の栄光と頓挫 『社会学入門を読む』」という項がある。この部分は「稲葉振一郎『社会学入門』NHKブックス、2009年」についてのコメントのようである。そこに「方法的個人主義」と「方法的全体主義」という言葉が出てくる。

方法的個人主義とはどういうものか。
社会は個人の集まりであるから、合理的主体である個人の行為を集積することで、社会全体がみえてくるとするものである。アダム・スミスの「みえざる手」は、個人の利己的行動が結果として調和をもたらすというものだが、調和は意図せざる結果であって、基本はあくまで個人の利己的行動におかれている。
- 竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)63p -
それに対して、方法的全体主義とは次のようなものである。
社会は構成員(個人)という部分の行為の単純な総和ではなく、全体そのものの独自の作用があるとする。この個人に還元されない独自なるものが「社会的なるもの」で、それが社会学の固有の対象であるとする。社会的なるものとは個人に外在しながら、個人の内面に入り込み、社会を成り立たせるものである。
- 竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)63p -
ここでの「全体主義」はファシズムなどの文脈で使われるものではなく、単に「個人」に対するものとしての「全体」という意味である。そして、経済学などは「方法的個人主義」で、社会学は「方法的全体主義」が主流的な方法になっているという。

ところで、これらの議論は昔からある社会実在論と社会名目論の対立とよく似ているところがある。むしろ、その焼き直し、蒸し返しだといってもよいというのが率直な印象である。


方法論的主観主義

さて、この記述のどこが「引っかかった」というと、「方法的個人主義」という語である。これはマックス・ウェーバーなどの社会科学の方法論たる「方法論的主観主義」と同じなのか違うのか、ということである。なお、私は「方法論的主観主義」と覚えているが(おそらく初めて目にした時がこの語だったのだろう)、これを「方法論的個人主義」と呼ぶ人もあるが、ほぼ同じものである(と思う)。
  方法論的個人主義 methodological individualism
 社会を認識していくばあい、その実在性を容認しながらも、分析方法として個人を中心にすえていく立場をいう。
(中略)
 ウェーバー(M.Weber)の行為理論や意味理解的方法は、明らかに方法論的個人主義に立脚するものであって、(以下略)。
- 鈴木幸寿 森岡清美 秋元律郎 安藤喜久雄 編「社会学用語辞典」(学文社)220p -
だいたいにおいて、かすかに残っていた記憶はそうまちがっていなかったようである。

ちなみに、当のマックス・ウェーバーは「社会科学方法論」(岩波文庫)で次のようなことを書いている。
あらゆる經驗的知識の客観的ヽヽヽ妥当性は、與へられた現實が、或る特殊な意味で主観的なヽヽヽヽところの、卽ち我々の認識の前提ヽヽを表示するところの、また經驗的知識のみが與へ得る眞理の価値ヽヽを必ず前提とするところの諸範疇に従って整序されるといふ事實に、またこの事實にのみ基づいている。
- マックス・ウェーバー「社会科学方法論」(岩波文庫)105p -
方法論的主観主義の言明である。なお、この本(論文)の正式タイトルは「社会科学的並びに社会政策的認識の「客観性」」というものである。
マックスウェーバー「社会科学方法論」


二者対立の議論

この種の議論の最初のものは、おそらく「神はあるか(存在するか)」というものだったのだろう。古代・中世における宗教の支配力は(特に西欧では)今とは比べ物にならないぐらいに強かったはずである。

これが形を変えて、中世の「普遍論争(Universalienstreit)」になる。普遍論争とは中世哲学・神学(スコラ哲学)における唯名論と実在論の対立のことである。実在論(realism) は「普遍は個物に先立って実在する」という主張。簡単に言えば、「普遍」は存在するということ。唯名論(nominalism) は「普遍は個物の後につくられる」とし、「普遍」は「名だけ」のものであるとした。要するに、「普遍」は存在しないということ。

存在をめぐる「ある」か「ない」かの議論、何かの「モノ」があるかないかの議論は、神学・哲学に限らず人間が大昔から論じてきた問題の代表的なものである。社会というものは存在するか存在しないか(社会実在論社会名目論)。法人というものは存在するか存在しないか(法人実在論と法人擬制論)。その他、いろいろあるだろう。

面倒なことは、「ほら、これが社会というものだ」「これが会社(法人)というものだ」「これが普遍というものだ」と、それを目の前に置くことができないことである。ダイアモンドがあるかないかの議論なら、ダイアモンドを持ってきて目の前に置けば、この議論の対立は即座に決着がつくのとは質的な差異があることである。人をある会社の前に連れて行ったところで、そこに見えるものは、「門」であり「建物」であり「従業員」などであって、「会社」そのものはどこにも見えない。

しかし、「お父さんは毎日会社に出勤している」、「今しっかり勉強しておかないと社会に出てから困るぞ」などの例をあげるまでもなく、人間の世界には「会社」も「社会」も厳然と存在していることは確かである。「あるかないか」の議論は既に決着がついている。そもそも、「社会」の存在を前提としないかぎり、社会現象を対象として研究する学問である社会科学(政治学・法律学・経済学・社会学・歴史学・文化人類学など)そのものが成り立たない。


名目論はなぜ根強いのか

すでに決着がついているのになぜ名目論が根強く主張されるのか。またはその変形バージョンがいくつも出てくるのか。確かに、「社会」というものがあるのかないのかという意味での社会実在論と社会名目論の対立は今では問題にならない。

しかし、社会についての認識の方法(または方法論)としては、「ある」か「ない」かとは別の次元の問題になる。今ではこの面での対立である。名目論の現代的再生とでもいえるものである。
  1. 社会名目論は、現実に存在する(実在する)のは結局は個々の具体的な人間(個人)であり個々のものである。これを人間がアプローチできるのはこういうものであり、これを研究の対象とするしかない。

  2. 社会実在論は、(諸)個人というものを超えた社会というものの実在を主張する。しかし個人が、個人を超えたものを認識できるのか、そんなものを個人が認識できるのかという原理的な疑問がある。
なるほど、社会科学は社会実在論を前提となければ成立しえない。しかし、社会名目論は自然法思想の思想的基礎となったものである。これは方法論上の個人主義(方法論的主観主義)としてマックス・ウェーバーや現代アメリカの社会学では根強い考え方である。
また自然法思想のひとつである社会契約論では人間が社会を作ったと考える。人間を「主」とする考え方である。人間の主体性を大きく認める点が研究者を惹きつけるのかもしれない。

しかし名目論的な方法では、個人を基準にするため認識が断片化し、全体としての社会を捉えることが困難になるという欠点がある。重要なことは、名目論的な主張をする場合、その方法的個人主義(方法論的主観主義)の社会把握力の限界をいかにして克服していくか、ということをセットで考えなければならないことである。この点でマックス・ウェーバーが唱えたのが価値判断排除または価値自由(Wertfreiheit)の原則である。もちろんこれにも問題点はあり、他の陣営からの批判もある。
- 2021/07/28 -


セミ

セミが間近に見える。昔はセミは高い木 ― 今ではそんな高い木は見かけなくなったが ― の上にしかいなかったが、昨今は畑レベルの低地にもやってくるようである。時代や環境に順応したということか。そして、このまわりには数倍のセミの抜け殻があった。


- 2021/07/25 -


ビール券

ビール券を数枚もらう。こういうものはコンビニなどでは使えないだろうと思って酒屋を探す。しかし、最近は酒屋オンリーの店はめっきり見なくなった。看板は出ていても開店休業状態である。そんな中で開いている店を一軒見つけた。券面に書かれている通り1枚で缶ビール2本の割合でビール(スーパードライ)をもらう。倉庫から取り出してきたような生ぬるい缶ビールである。そして、数日後またビール券を使おうとその店に行くと、定休日(2日間)の貼り紙がしてある。酒販免許で守られていた昔は「左うちわ」だった専業酒屋も、酒類販売が自由化された今ではやっていくのも相当厳しいようである。

ところで、このビール券。別に専業酒屋でなくても、コンビニやドラッグストアでも使えることを初めて知った。そんな店ならごく近くにある。さっそくそこに行ってビール券は使えるのかと聞くと、使えるという。そこで、前にやったように券を2枚出して前と同じビールを4缶もらって帰ろうとすると、「おつりは出ないけどいいか」と聞かれる。この券1枚で缶ビール2本と引き換えると書いてあるが、「おつり」の意味がわからない。店員に聞くと、当店ではビール券を金額に換算して計算するという。缶ビール4本分で872円(税込)で、この券2枚分の金銭評価(商品券としての金額)は976円。したがって、104円のおつりになるが、それは規定で出せない、ということのようである。それであと114円プラスするともう1本缶ビールが買えるが、どうすると聞かれる。ムダなくビール券が使えならそうしよう。

しかし、こんなことは今初めて知った(たぶん店によるだろう)。ビールの安い店では同製品を198円(税込)で売っている。現金で買うなら当然こちらだが、ヒール券の場合はそういう小売単価に関係なく「2缶」と明記されているから、どこで引き換えても同じだと思っていた。いくらか使ったとはいえまだこのビール券は40枚ほどある。これからこの店で引き換えてもらうことにした。それにしても、専業酒屋がすたれていくのもわかるような気がする一幕であった。
- 2021/07/20 -


知の連想ゲーム(1)

ミシェル・フーコー(Foucault, Michel/1926-1984)といえば、まず思い出すのは「知の考古学」である。「考古学」とタイトルがつくからといって、これは「歴史」についての言説・考え方だというわけではない。むしろ、いわゆる「考古学」とはまったく無関係である。
人文科学諸領域における構造主義の隆盛は、文学の捉え方にも本質的影響を及ぼさずにはいなかったが、とりわけ哲学の寄与は大きい。そこには、文学が哲学的考察に材料を提供すると同時に、現代思潮の提示する新しい人間観が文学を動かさずにはいないという相互作用がある。ミシェル・フーコーは、医学(とくに精神医学)や文学におけるもろもろの言説の歴史的形成過程を探る「考古学(アルケオロジー)=掘り起こし」の作業を通して、政治、法律、家庭、精神医学などにあって網目状に張りめぐらされた権力が、いかに狂人、囚人、性的少数者などに対して排除と抑圧の機構を織りあげてきたかを暴いた。それはまた、社会的なものへの哲学の新たなかかわり方を示す仕事であった。
- 田村毅・塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)341p -
すべての人間の知(知恵)が、どういう背景でいかにして作られたか、その歴史的形成過程を探求するということである。その由来をたずねて、その意義を明らかにするということである。これが考古学的な方法とよく似ているから「知の考古学」とネーミングされただけである。

構造主義

構造主義とは読んで字の如し。
構造主義 [英structuralism, 独Strukturalismus, 仏structuralisme]
一般に研究対象の構造の分析・記述に優位を与える研究方法ないし立場を意味するが、とくにまず今世紀の言語学において、ついで人類学においてこの言葉が用いられた。
- 粟田賢三・古在由重編「岩波 哲学 小辞典」(岩波書店)75p -
しかし、こんな程度のことが「大上段に」取り上げられるようになったのはなぜか。構造主義はなぜ隆盛になったのか。その背景にはどんな事情があったのか。以下では「構造主義とは何か1)」的な面からではなく、構造主義とは異質な、ちょっと変わった面から、具体的には認識論的な方から切り込んでみよう。
NOTE
1) 構造主義と実存主義/構造主義とポスト構造主義(card_0036)。

また、田村毅・塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)―「Ⅶ 二十世紀後半」―「7 新しい知の興隆と文芸批評」の項には次のような記述がある。
ソシュール言語学に触発された民族学者クロード・レヴィ・ストロースは、『親族の基本構造』(四九)において、「未開人」の生活も「文明人」のそれ同様に、目には見えにくいが一貫した象徴的規範によって組織された親族関係を備えていることを示し、象徴的性格を有する人間的事象の総体に適応しうる構造分析の方法を提示した。
- 田村毅・塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)329p -
確かに、今では構造主義といえばレヴィ・ストロースを連想するほどになっている。しかし、この記述ではその理由はわからない。

機能主義

ところで、レヴィ・ストロースが出てくれば、当然にマリノフスキーも思い出される。中央公論社の「世界の名著」というシリーズでも、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」とマリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」が同一の巻に収録されている。この二人にはなにか関連がありそうである。そのマリノフスキーといえば機能主義の代表と言われている。構造主義とは違っている。
機能主義 [英functionalism, 独Funktionalismus, 仏fonctionlisme]
1) 科学的方法論では、ものごとを、その実体的な構造において静的・固定的にとらえるのではなく、その機能において動的・相関的・過程的にとらえようとする立場をいう。こうした立場は、19世紀末から科学の諸領域において有力となり、多様な形態をとって展開されている。認識論的には、物自体・本質・実体・第一原因などについての認識は不可能であり、現象・相互作用・機能・結果などについての認識だけが可能だとする立場をいう。
- 粟田賢三・古在由重編「岩波 哲学 小辞典」(岩波書店)52p -
「物自体・・・についての認識は不可能」であるなどという部分はカントを連想してしまう。機能主義の源流はカントの認識論に近いようである。「物自体」は認識できないが、それが引き起こす「現象・相互作用」は人間の知覚によって認識可能であるというカントの言説である。「物そのもの」は認識できないが「機能」は認識できる。

カント

カントの認識論は、波多野精一「西洋哲学史要」(角川文庫)の要約するところによれば、
其は真の認識はア・プリオリのものならざるべからずというに於て主理説(Rationalismus)なり。其の認識の対象たる、空間時間に於ける世界は現象のみ主観的産物のみというに於て唯現象論(Phänomenalismus)即ち認識論上の唯心論なり。認識は其の対象が現象なるが故に成立つものなれば、唯現象論は主理説の根拠をなすものというべし。
- 波多野精一「西洋哲学史要」(角川文庫)197p -
ドイツ語のRationalismusは合理主義(唯理主義)、Phänomenalismusは現象論という意味である。

しかし、今ここでカントの哲学に深入りしようという気はない。ただ、構造主義と機能主義は対になっていて、基本的立場は正反対である。その機能主義のバックボーンにカントの認識論があるとすれば、構造主義はアンチ・カントであるということになる。それが爆発的にヒットした原因かもしれない。

アンチ・カントのどこが受けたか

構造主義が出てくる前までは、カント流の「「物自体」について語ることはできない」、「物自体」については認識することはできない。こういう認識論が主流だった。カントやヘーゲルはやはり偉大である。その影響力は今なお大きい。正面切ってこれに異を唱えることは当時としてははばかられる。そんなムードが支配的だった。

ところで、構造主義とは、一般に研究対象の構造の分析・記述に優位を与える研究方法ないし立場をいうが、ここでは「研究対象」たる「物」について認識できるということが前提になっている。それだから、「対象」についての「構造の分析・記述」ということも可能になる。この点がカントとは正反対である。これは認識論の歴史からみれば、コペルニクス的転回ともいうべき画期的なことだったのである。構造主義の衝撃といわれるもの「むべなるかな」である。

今までの思想界では「物自体」については認識不可能とされていたが、構造主義によればそれが認識可能である。それで構造主義に基づく研究などが次々に発表されてきて構造主義が隆盛を極めたのではないか。

浅田彰の言説

浅田彰「構造と力 記号論を越えて」(勁草書房)の中で、構造主義について次のようなことを書いている。
1-1 カントは、主観に対して現象する対象はすでに人間主観にア・プリオリに具わった形式によって構成されたものであり、そのような構成に先立つ「物自体」について語ることはできない、と論じた。
 現象界と物自体界、透明な表象体系とその外部の≪暗部ドウンケルハイト≫。後にショーペンハウアーがこれを≪表象としての世界≫と≪意志としての世界≫という形で読みかえたことを付け加えることができる。
 こうした二世界説は、最終的には、形相/質料、観念/物質の二元論に由来するものであり、実際、観念論と唯物論の同位対立の恰好の舞台とならざるをえない。カントは物自体の存在を否定せず、ただそれを語りえぬものの領域へ追いやるにとどまったが、一歩進んで物自体を無として抹消するとき、典型的な観念論が成立すると言っていいだろう。

1-2 カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は共同主観的な形成体であり、従って、表象体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義であると言ってよい。
- 浅田彰「構造と力 記号論を越えて」(勁草書房)112p -
文章が生硬(悪文またはヘタ)でわかりにくいが、書いていることは単純なことである。またショーペンハウエルはカントの後継者(の立場)であるが、この文脈で持ち出す必要はないことだろう。若気の至りというべきか、衒学趣味がすぎて、かえって文章の流れを阻害しているだけである。

昔から言われてきたように、カントは、人間は「物自体」を直接認識することはできないとした。人間が認識できるのは「物自体」を人間の五感で感じ取った「現象」だけであるとする。

上の悪文の解読。
  1. 人間主観にア・プリオリに具わった形式
    各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式
    とは、簡単に言えば「理性」のことである。

  2. 共同主観的な形成体
    わかりにくい書き方である。これも簡単にいえば、各人は理性をもっていると同時に、他人もそれを持っている。自分が感じることは、同じく他人もそう感じるだろうと期待してよい。そういうことを指しているようである。いわば「暗黙の了解」とでもいうべきものか。
このあと次のような言説が続く。
 こうした理論的進展にもかかわらず、基本的な構図はカントのそれとさして変わっていない。構造主義が象徴秩序に注意を集中し、その外部について語るのを拒否するとき、そこに観念論の現代的形態を見てとることができる。
- 浅田彰「構造と力 記号論を越えて」(勁草書房)113p -
構造主義はまんざらカントと無関係だとは言えないようである。いやむしろ構造主義はカントとは大いに関係があるということである。
- 2021/07/18 -


開発者ツールとは片腹痛い

Microsoft EdgeのドッキングツールであるDevToolsには「開発者ツール」とかいう「大袈裟」なタイトルがついているが、その動作の実質は昔ながらの手動でタグを書き込むことにすぎない。これは今までIEとメモ帳でシコシコと手動でやってきたことと同じである。IEからメモ帳にソースを呼び出し、それを編集・保存するだけである。そういう原始的方法を「開発」「開発者」などといわれるのは片腹痛い。またHTMLの「タグ」を知っている程度で「開発者」といわれるのも、なんだかなぁ、という感がする。

とはいうものの、このMicrosoft Edgeについている開発者ツール(DevTools)は使い勝手が悪いうえに、「IE+メモ帳」にくらべてはるかに非能率的である。Edgeからメモ帳を呼び出すという機能(IEにあるように)をカットしたのは非常に残念である。この機能さえあればDevToolsなどは不要である。しかも、そのファイル操作には制限があり、かつ面倒で遅い。そしてタグを知っている者にはDevToolsの機能の大半は使わない(その必要がない)ものばかりである。

いずれにしても、次期Windows 11からはIEもなくなるようなので、今のうちにせいぜいIEを使ってUTF-8化またはPCSM化を進めていきたいと思う。しかし、IEを使うとMicrosoftからの干渉が露骨にひどくなるのが問題である。EdgeよりもIEのほうがはるかに「作業をより簡単」におこなえることは確実である。
- 2021/07/16 -


コロナの効用

コロナ騒動によって今まで形ばかりの儀式と化していたものがなくなってきたのはいいことである(虚礼廃止)。その最たるものは派手な結婚式や葬式であろう。これは結婚式をしたことにしよう(儀式は一切なし)という人から返礼にもらった珍しい酒である。

いつもは酒は日本酒、暑い夏場はビール系飲料にほぼ固定しているが、もらえばもちろんありがたく頂戴して飲む(笑)。 原産国はイギリスのウイスキーようである。ラベルは英語ばかり。どれが酒の名前でどれがメーカーの名前かよくわからない。目立つのはLAKESCOLHEITAという文字である。WHISKYMAKERとしてDhavall Gandhi という筆記体の署名がある。とにかく、よくわからない酒である(笑)。大きなローソクのような形をしたビンである。
- 2021/07/15 -


通販

通販サイト 自社独自で 開設サービス 出店より割安」(朝日新聞2021/07/14)という記事がある。これは商売をする業者から見て、アマゾンや楽天市場に「出店」するのは出店料、販売価格の数パーセントの手数料、送料などの費用が高くなることを指摘したものである。これはネット通販などができた当時から言われていたことで別に目新しいことではない。

その「物」を扱っている実店舗が近くにあればそこで買う方が安い、そういうものを利用すると「割高」になることは自明の事であった。最近これにからんだ例を体験した。知人がスマホの楽天市場で気に入った物を見つけたという。しかし、彼はクレジットカードを持っていないので代わりに買ってくれ、かかった費用は現金で払うという。それで彼になりかわって購入したものである。これこれの物で金額はこれぐらい、と聞いていたが、メーカーサイトの直販で見ると、聞いていた額と大幅に違う。聞いていた額の約4分の1だが、それで間違いないかと聞くと、その安さは「中古かもしれない」という。とり合えず、こちらに来て、パソコンの画面で確認して、その「物」かどうか見てくれ。

確かに、その「物」であるというので注文した。それにしてもメーカー直販の4倍の値段で売るとは、いい商売だ。送料タダにするとかいっても、もうおつりがくるだろう。低額商品の場合は数倍、高額商品の場合は2~3割増しの「ぼったくり」商法である。これに類した手口は今なお健在なようである。
- 2021/07/14 -


彼此の差

前にもらったスマホで遊んでいたら珍しいことに気がついた。もちろん「遊べる」範囲は限られているが、その昔、一世を風靡したAV女優の名前を検索したときのことである。

今までのスマホでは次のようになっていた(Fig.1, Fig.2)
Fig.1Fig.2

それがサムスンのスマホではつぎのようになった(Fig.3, Fig.4)
Fig.3Fig.4

スマホ・ポリシーの差とでもいえばいいのだろうか、同じGoogle検索でもずいぶんと差があるようである。他にAV女優として名を馳せた数人についても同様の結果であった。いわゆる「いかがわしい」動画もバンバン大量に出てくる。それでついつい昨晩は楽しませてもらった(笑)。
- 2021/07/12 -