知の連想ゲーム(2021/06/18~)

竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)の「第1章 全共闘の時代」の部分に、「社会学の栄光と頓挫 『社会学入門を読む』」という項がある。この部分は「稲葉振一郎『社会学入門』NHKブックス、2009年」についてのコメントのようである。そこに「方法的個人主義」と「方法的全体主義」という言葉が出てくる。ここでの「全体主義」はファシズムなどの文脈で使われるものではなく、単に「個人」に対するものとしての「全体」という意味である。経済学などは「方法的個人主義」で、社会学は「方法的全体主義」であるという。

さて、方法的個人主義とはどういうものか。
社会は個人の集まりであるから、合理的主体である個人の行為を集積することで、社会全体がみえてくるとするものである。アダム・スミスの「みえざる手」は、個人の利己的行動が結果として調和をもたらすというものだが、調和は意図せざる結果であって、基本はあくまで個人の利己的行動におかれている。
- 竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)63p -
それに対して、方法的全体主義とは次のようなものである。
社会は構成員(個人)という部分の行為の単純な総和ではなく、全体そのものの独自の作用があるとする。この個人に還元されない独自なるものが「社会的なるもの」で、それが社会学の固有の対象であるとする。社会的なるものとは個人に外在しながら、個人の内面に入り込み、社会を成り立たせるものである。
- 竹内洋「大学の下流化」(NTT出版)63p -


方法論的主観主義

このどこが「引っかかった」というと、「方法的個人主義」という語である。これはマックス・ウェーバーなどの社会科学の方法論たる「方法論的主観主義」と同じなのか違うのか、ということである。なお、私は「方法論的主観主義」と覚えているが(おそらく初めて目にした時がこの語だったのだろう)、これを「方法論的個人主義」と呼ぶ人もあるが、ほぼ同じものである(と思う)。
  方法論的個人主義 methodological individualism
 社会を認識していくばあい、その実在性を容認しながらも、分析方法として個人を中心にすえていく立場をいう。
(中略)
 ウェーバー(M.Weber)の行為理論や意味理解的方法は、明らかに方法論的個人主義に立脚するものであって、(以下略)。
- 鈴木幸寿 森岡清美 秋元律郎 安藤喜久雄 編「社会学用語辞典」(学文社)220p -
だいたいにおいて、かすかに残っていた記憶はそうまちがっていなかったようである。


二者対立の議論

この種の議論の最初のものは、おそらく「神はあるか(存在するか)」というものだったのだろう。古代・中世における宗教の支配力は(特に西欧では)今とは比べ物にならないぐらいに強かったはずである。これが形を変えて、中世の「普遍論争(Universalienstreit)」になる。普遍論争とは中世哲学・神学(スコラ哲学)における唯名論と実在論の対立のことである。実在論(realism) は「普遍は個物に先立って実在する」という主張。簡単に言えば、「普遍」は存在するということ。唯名論(nominalism) は「普遍は個物の後につくられる」とし、「普遍」は「名だけ」のものであるとした。要するに、「普遍」は存在しないということ。

これは神学・哲学に限らず、何かの「モノ」があるかないかは人間が大昔から議論してきた問題の代表的なものである。社会というものは存在するか存在しないか(社会実在論と社会名目論)。法人というものは存在するか存在しないか(法人実在論と法人擬制論)。その他、いろいろあるだろう。

面倒なことは、「ほら、これが社会というものだ」「これが会社(法人)というものだ」「これが普遍というものだ」と、それを目の前に置くことができないことである。ダイアモンドがあるかないかの議論なら、ダイアモンドを持ってきて目の前に置けば、この議論の対立は即座に決着がつくのとは質的な差異があることである。人をある会社の前に連れて行ったところで、そこに見えるものは、「門」であり「建物」であり「従業員」などであって、「会社」そのものはどこにも見えない。

しかし、「お父さんは毎日会社に出勤している」、「今しっかり勉強しておかないと社会に出てから困るぞ」などの例をあげるまでもなく、人間の世界には「会社」も「社会」も厳然と存在していることは確かである。「あるかないか」の議論は既に決着がついている。そもそも、「社会」の存在を前提としないかぎり、社会現象を対象として研究する学問である社会科学(政治学・法律学・経済学・社会学・歴史学・文化人類学など)そのものが成り立たない。


知の連想ゲーム(2021/05/19~)

フーコー(Foucault, Michel/1926-1984)といえば、まず思い出すのは「知の考古学」である。「考古学」とタイトルがつくからといって、これは「歴史」についての言説・考え方だというわけではない。むしろ、いわゆる「考古学」とはまったく無関係である。
人文科学諸領域における構造主義の隆盛は、文学の捉え方にも本質的影響を及ぼさずにはいなかったが、とりわけ哲学の寄与は大きい。そこには、文学が哲学的考察に材料を提供すると同時に、現代思潮の提示する新しい人間観が文学を動かさずにはいないという相互作用がある。ミシェル・フーコーは、医学(とくに精神医学)や文学におけるもろもろの言説の歴史的形成過程を探る「考古学(アルケオロジー)=掘り起こし」の作業を通して、政治、法律、家庭、精神医学などにあって網目状に張りめぐらされた権力が、いかに狂人、囚人、性的少数者などに対して排除と抑圧の機構を織りあげてきたかを暴いた。それはまた、社会的なものへの哲学の新たなかかわり方を示す仕事であった。
- 田村毅・塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)341p -
すべての人間の知(知恵)が、どういう背景でいかにして作られたか、その歴史的形成過程を探求するということである。その由来をたずねて、その意義を明らかにするということである。これが考古学的な方法とよく似ているから「知の考古学」とネーミングされただけである。

構造主義

構造主義とは読んで字の如し。
構造主義 [英structuralism, 独Strukturalismus, 仏structuralisme]
一般に研究対象の構造の分析・記述に優位を与える研究方法ないし立場を意味するが、とくにまず今世紀の言語学において、ついで人類学においてこの言葉が用いられた。
- 粟田賢三・古在由重編「岩波 哲学 小辞典」(岩波書店)75p -
しかし、こんな程度のことが「大上段に」取り上げられるようになったのはなぜか。構造主義はなぜ隆盛になったのか。その背景にはどんな事情があったのか。以下では「構造主義とは何か1)」的な面からではなく、構造主義とは異質な、ちょっと変わった面から、具体的には認識論的な方から切り込んでみよう。
NOTE
1) 構造主義と実存主義/構造主義とポスト構造主義(card_0036)。
ソシュール言語学に触発された民族学者クロード・レヴィ・ストロースは、『親族の基本構造』(四九)において、「未開人」の生活も「文明人」のそれ同様に、目には見えにくいが一貫した象徴的規範によって組織された親族関係を備えていることを示し、象徴的性格を有する人間的事象の総体に適応しうる構造分析の方法を提示した。
- 田村毅・塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)329p -
確かに、今では構造主義といえばレヴィ・ストロースを連想するほどになっている。しかし、この記述ではその理由はわからない。

機能主義

ところで、レヴィ・ストロースが出てくれば、当然にマリノフスキーも思い出される。中央公論社の「世界の名著」というシリーズでも、レヴィ・ストロース「悲しき熱帯」とマリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」が同一の巻に収録されている。この二人にはなにか関連がありそうである。そのマリノフスキーといえば機能主義の代表と言われている。構造主義とは違っている。
機能主義 [英functionalism, 独Funktionalismus, 仏fonctionlisme]
1) 科学的方法論では、ものごとを、その実体的な構造において静的・固定的にとらえるのではなく、その機能において動的・相関的・過程的にとらえようとする立場をいう。こうした立場は、19世紀末から科学の諸領域において有力となり、多様な形態をとって展開されている。認識論的には、物自体・本質・実体・第一原因などについての認識は不可能であり、現象・相互作用・機能・結果などについての認識だけが可能だとする立場をいう。
- 粟田賢三・古在由重編「岩波 哲学 小辞典」(岩波書店)52p -
「物自体・・・についての認識は不可能」であるなどという部分はカントを連想してしまう。機能主義の源流はカントの認識論に近いようである。「物自体」は認識できないが、それが引き起こす「現象・相互作用」は人間の知覚によって認識可能であるというカントの言説である。「物そのもの」は認識できないが「機能」は認識できる。

カント

カントの認識論は、波多野精一の要約するところによれば、
其は真の認識はア・プリオリのものならざるべからずというに於て主理説(Rationalismus)なり。其の認識の対象たる、空間時間に於ける世界は現象のみ主観的産物のみというに於て唯現象論(Phänomenalismus)即ち認識論上の唯心論なり。認識は其の対象が現象なるが故に成立つものなれば、唯現象論は主理説の根拠をなすものというべし。
- 波多野精一「西洋哲学史要」(角川文庫)197p -
ドイツ語のRationalismusは合理主義(唯理主義)、Phänomenalismusは現象論という意味である。

しかし、今ここでカントの哲学に深入りしようという気はない。ただ、構造主義と機能主義は対になっていて、基本的立場は正反対である。その機能主義のバックボーンにカントの認識論があるとすれば、構造主義はアンチ・カントであるということになる。それが爆発的にヒットした原因かもしれない。

アンチ・カントのどこが受けたか

構造主義が出てくる前までは、カント流の「「物自体」について語ることはできない」、「物自体」については認識することはできない。こういう認識論が主流だったのではないか。カントやヘーゲルはやはり偉大である。その影響力は大きい。おいそれとはそれに異を唱えることははばかられる。

ところで、構造主義とは、一般に研究対象の構造の分析・記述に優位を与える研究方法ないし立場をいうが、ここでは「研究対象」たる「物」について認識できるということが前提になっている。それだから、「対象」についての「構造の分析・記述」ということも可能になる。これは認識論の歴史からみれば、コペルニクス的転回ともいうべき画期的なことだったのである。これが構造主義の衝撃といわれるものかもしれない。

今までの思想界では「物自体」については認識不可能とされていたが、構造主義によればそれが認識可能である。それで構造主義に基づく研究などが次々に発表されてきて構造主義が隆盛を極めたのではないか。

浅田彰の言説

構造主義について浅田彰は次のようなことを書いている。
1-1 カントは、主観に対して現象する対象はすでに人間主観にア・プリオリに具わった形式によって構成されたものであり、そのような構成に先立つ「物自体」について語ることはできない、と論じた。
 現象界と物自体界、透明な表象体系とその外部の≪暗部ドウンケルハイト≫。後にショーペンハウアーがこれを≪表象としての世界≫と≪意志としての世界≫という形で読みかえたことを付け加えることができる。
 こうした二世界説は、最終的には、形相/質料、観念/物質の二元論に由来するものであり、実際、観念論と唯物論の同位対立の恰好の舞台とならざるをえない。カントは物自体の存在を否定せず、ただそれを語りえぬものの領域へ追いやるにとどまったが、一歩進んで物自体を無として抹消するとき、典型的な観念論が成立すると言っていいだろう。

1-2 カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は共同主観的な形成体であり、従って、表象体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義であると言ってよい。
- 浅田彰「構造と力 記号論を越えて」(勁草書房)112p -
文章が生硬(またはヘタ)でわかりにくいが、書いていることは単純なことである。またショーペンハウエルはカントの後継者(の立場)であるが、この文脈で持ち出す必要はないことだろう。若気の至りというべきか、衒学趣味がすぎて、かえって文章の流れを阻害しているだけである。

昔から言われてきたように、カントは、人間は「物自体」を直接認識することはできないとした。人間が認識できるのは「物自体」を人間の五感で感じ取った「現象」だけであるとする。

上の悪文の解読。
  1. 人間主観にア・プリオリに具わった形式
    各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式
    とは、簡単に言えば「理性」のことである。

  2. 共同主観的な形成体
    わかりにくい書き方である。これも簡単にいえば、各人は理性をもっていると同時に、他人もそれを持っている。自分が感じることは、同じく他人もそう感じるだろうと期待してよい。そういうことを指しているようである。いわば「暗黙の了解」とでもいうべきものか。
このあと次のような言説が続く。
 こうした理論的進展にもかかわらず、基本的な構図はカントのそれとさして変わっていない。構造主義が象徴秩序に注意を集中し、その外部について語るのを拒否するとき、そこに観念論の現代的形態を見てとることができる。
- 浅田彰「構造と力 記号論を越えて」(勁草書房)113p -
構造主義はまんざらカントと無関係だとは言えないようである。いやむしろ構造主義はカントとは大いに関係があるということである。
- 2021/05/25 -