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私的北海道学(2) 2015年05月09日(Sat)
 本州島とは津軽海峡を挟んで向かい合う島のことを我々は「北海道」と呼ぶ。徳川時代やそれ以前には「蝦夷地」と呼ばれていたことは割と知られた事だろう。因みに「蝦夷地」を「北海道」と名付けた松浦武四郎という人は元々は三重の人だが弘化3年に樺太に赴任する松前藩の藩医の下僕として樺太に渡ったこともあるそうだ。
 ともかくも徳川幕府は東北の雄藩に警備区域を割り当てるなどして北方警備に重点を置いていた。何故か、日本からすると北方の大国、ロシア帝国が南下の姿勢を見せていたからだ。多分、ロシア帝国以前にも例えば北海道の太平洋岸の何処かに漂着した外国船などはあった筈だと僕は思うのだが、幕府としてはロシアを警戒した。そして、その警戒が正しかったことを示す事件が起きた。世に言うラクスマン事件だ。
 この事件の詳しいことは例えば司馬遼太郎氏が著書「菜の花の沖」に書かれるなどしている。縮めて言うと日本の漂流民大黒屋光太夫を送り届けるためのロシア使節団一行が寛政4年10月20日に北海道根室市に現れたのだ。当時の日本が外国船の寄港地として唯一、許していたのが長崎で、まさか北海道の最東端の寒村にいきなりロシア人が現れるなど幕府は想像もしていなかったのではあるまいか。
 当時、根室には松前藩士が常駐していたから、その報告は松前藩経由で徳川幕府にもたらされた。このロシア一行の指揮官がラクスマンという人だったから「ラクスマン事件」と呼ばれるのだが、徳川幕府は彼らに長崎に向かうように指示した。
 僕は徳川幕府の外交政策(当時、それが存在したのかどうかも含めて)何も知らないが、「封建制」と呼ばれる体制下にあっても「北海道」は日本の一部として認識されていたということはこのラクスマン事件の周辺を少し調べるだけでも分かると思う。

私的北海道学(1) 2014年11月21日 21時20分12秒
北海道って何なのだろうと考えることがある。
 僕は北海道の東側にある釧路市で生まれてから高校を卒業するまで暮らした。その後、大学進学で離れたが、就職してからは釧路地方で働いている。住民票を北海道の外に移したことが無い、生粋の道産子といって良いと思う。で、その僕が「北海道って?」と他人に問われても答えることが出来ない。ただ、僕は「集団人格」とやらに懐疑的だから「民族性」や「国民性」ということと同様に「県民性」と言われても頷けないが、それでも、職場で本州出身者の同僚と働いたことがあって、彼が
 「道民は何も考えてはいない」
 と言うのを聞いて、むっとすると同時に「県民性」を思った。ちなみに僕が社会に出てから職場の同僚として接した本州出身の人達は揃って野党根性旺盛とでもいうのか少しでも自分の思い通りに行かないことがあると癇癪を起こすような人達だった。本州では考えるということは我を通すと言うことと同義だと彼らを見て思った。
 先にも書いたとおり、僕は北海道という島から旅行以外で出た事が無い。だから、外から見た北海道については何も知らないに等しい。ただ、いずれも東京のマスコミ発の情報を元に考えると日本政府は北海道を「お荷物」と意識しているようだとは思う。
 平成25年度の「北海道普通会計決算の状況」によると北海道の財政力指数は
約0.39となっている。中学校の社会科の時間で、日本の地方自治は「3割自治」と習ったことを僕は覚えているが、北海道はそれを僅かに上回るだけだ。すくなくとも北海道単体について言うと国の財政措置が無ければ立ちゆかなくなっている。道財政は最早、「危機的」を通り越して危機そのものだと思うのは僕だけだろうか。 更に言うと北海道内にある179の市町村が平成26年度に受け取った「普通地方交付税」の総額は
約7,600億円に達する。「交付税」制度は国が地方財源の徴収業務を代行しているという性格もあり、交付額の算定に当たって各市町村の人口が算定基礎として用いられるから、この額だけで「地歩自治の強度」を論じることは出来ないにしても、国から大きな金額を受け取ったと僕は思う。さらに国土交通省所管の「北海道開発予算」が平成24年度は 約4,000億円計上されている。北海道には国土交通省の地方整備局に該当する部署はないから他府県と単純に比較は出来ないが、それにしても大きな金額だと思う。
 往時、道知事を務めた某氏が北海道庁をして「北海道で最大の会社」と言ったことがあった。その言葉が自嘲か揶揄かは知らぬが、もし北海道が株式会社だとしたら民事再生法の適用申請どころでは済まないだろうと僕は思う。
 「北こそフロンティア」とか「パイオニア精神」とか言うけれど現状を見る限り、そんな綺麗事で済まされるような状況ではない。
崖っぷち部隊とは北海道のことなのだと僕は思う。

サヨナラの春にその2 2013年03月02日 12時55分14秒
末広の夜景です

無題 2013年03月02日 10時55分51秒


サヨナラの春に 2013年03月02日 10時54分54秒
今年の3月、1人の先輩が定年で退職します。
 先日、その先輩の送別会が開かれました。
 さきもりが駆け出しのころから随分と世話になった先輩でした。
 体が辛く、それでも頑張っている姿を見てきました。
 先輩、今まで本当にありがとうございました。
 いつまでも、お元気で。

正しい人 2008年01月09日 00時13分02秒
ガラにもなく詩なるモノを書いてみました。

僕は強い人にはなれないし正しい人にもなれないけれど
優しい人にはなれると思う
優しいことが正しいとは言わないけれど
今の君には必要だと思う
しばれる冬の海風に晒され涙を流す君に
慰めなんか意味がない
君の痩せた肩に僕はそっと手を置く

僕は広い人にはなれないし高い人にもなれないけれど
優しい人にはなれると思う
優しいことが正しいとは言わないけれど
今の君には必要だと思う
粉雪の舞う北風に晒され涙を流す君に
慰めなんか意味がない
君の痩せた肩に僕はそっと手を置く

僕は鋭い人にはなれないし見抜く人にもなれないけれど
優しい人にはなれると思う
優しいことが正しいとは言わないけれど
今の君には必要だと思う
風の吹きゆく雪原で佇み涙を流す君に
慰めなんか意味がない
君の痩せた肩に僕はそっと手を置く

サンマの詫び 2007年10月18日 22時27分08秒
「夕べ、美咲ちゃんたちと会ったそうだね」
 風呂から上がり、半袖シャツのまま娘と向かい合わせに食卓テーブルに向かった父親は無造作に娘に問いかけた。
「なんで知っているの?」
娘は、ご飯を持った茶碗を片手に持ったまま、心底驚いた顔をして父親を見つめた。
「父さんの車に乗ったんだ」
「なんだ、あの子、酔っぱらってたでしょ」
 父親は苦笑し、うつむき加減になりながら頷いた。
 美咲とは彼の娘の高校時代の同級生で今は東京に住み女子大に通っている。
 娘の理恵は、その美咲よりも成績が良かった。だが、理恵は進学せず水産加工場で働いている。
「すまん、お前を大学にやってやれなくて」
「そんなことないよ、私、夢捨てた訳じゃないし」
 理恵は小学校の先生になるという夢があった。だから、通信制の大学に通っていた。
 理恵の母親は彼女が高校2年生の時に病死した。そして、理恵の妹は看護婦になるために札幌の看護学校に通っていた。
 タクシー運転手の父親の収入では、二人の娘を大学に通わせることは無理だった。それに母親が生きていた頃、その治療費を賄うためにした借金の返済もあった。だから、理恵は高校を卒業するとき、自分で水産加工場の従業員の口を探し、父親には何も言わず働き始めた。
「君枝も私も進学するなんて、ウチじゃ無理だよ。それにお父さんをこの家でひとりぼっちにはできないし」
 娘はテーブルの上に置かれた、札幌にいる妹の写真を見ながら言った。
「すまん」
 父親は、今にも泣き出しそうになりながら、そう言った。
「やめてよ、お父さん、私、別に大学に通うことにこだわってないし。私はただ、小学校の先生になりたいだけなんだから。だから、今だって通信制の大学に通っているでしょ」
娘はそう言いながら父親を見つめた。
 父親は無言で手にした猪口に満たされた酒を見つめた。
「お父さん、サンマ食べてよ、サンマって体にも良いんだよ」
 娘に言われて父親は、目の前の皿にのせられたサンマに箸を付けた。娘が仕事場で分けてもらってきた物だ。
「おいしい?」
娘に問われた父親は黙って頷いた。
「良かった、じゃ、明日はサンマの刺身をもらってきてあげるよ」
 娘はさも嬉しそうに父親に向かっていった。
「すまん」
 父親は、娘に注いでもらった猪口を見ながら、そう言った。
「だから、お父さんが謝ることじゃないよ、私は、このウチにいたいから今の会社で働いているんだから。私は今でも夢を追いかけているんだから」
 娘は笑みを浮かべながら父親に優しく言葉をかけた。
「すまん」
 父親は、なおも詫び続けた。そして、ふと彼が顔を上げると、そこには若さのあふれる娘の笑顔があった。
「すまん」
 父親は面(おもて)を伏せて呟くように言った。
                             (フィクションです。)



さきもりの旅日記 稚内、豊富温泉編(4) 2007年10月02日 23時34分25秒
 目の前にあるのは「S」ホテル、期待に胸を膨らませたさきもりは、先ほどまでの眠気もどこへやら、足取りも軽くホテルに向かった。
 部屋に通され荷物を置いて窓を開ける。
 空いていたからなのか、ホテルが気を遣ってくれたのか、さきもりは4人部屋を一人で占領したようだ。
 この豊富温泉は、大正の頃に地質学者の石油が出るかもしれないというご託宣をアテにして地面を掘削したところ、石油の代わりに天然ガスと温泉が噴き出したという土地で、ホテルの中に石油臭がほんのりと漂う。
 早速、わくわくしながら風呂に向かい、温泉に入る。因みにフロントでは館内では浴衣で結構ですからと言われたので、素直に浴衣にどてらを着込む。
 風呂場で被り湯をすませると温泉に入る。
 温めのお湯が気持ちいい。熱いお湯が苦手なさきもりにとっては正に天国。稚内の街をうろつき回った足の疲れなど吹っ飛んでしまう。
 アルコールのせいもあり、暫しまどろむ。風呂の中で寝るなど久しぶりだ。因みに釧路市内の銭湯も、さきもりの実家の風呂もさきもりにとっては熱すぎる。漁師町の故かしら、などと釧路市民を前にしては絶対に言えないことも脳裏をかすめるのだが、この豊富のお湯はとにかく入っていて気持ちがよい。見ると浴槽の縁に枕に丁度良い物が置いてある。これでは「眠れ」と言っているようなものだ。
 浴室の外には椅子が置いてあり、涼めるようになっているので、さきもりは遠慮無く涼みに出る。
 辺りに聞こえるのは野鳥の鳴き声とそよぐ風の音と浴室に静かに流れるBGM。国道を行き交う自動車の音さえ疎らで、静寂に包まれている。「過疎地」の一言で切って捨ててしまうことも出来るが、豊富と似たような過疎地に住むさきもりは、ここの暮らしも悪くはないと思う。
 先人の知恵という、遺産という、しかし、生かさなければ只の歴史の一こまだろうとさきもりは思う。日本人の先祖は、こういう自然の営みの中に身を投じることで精神の均衡を保とうとしてきたのではないだろうか、とさきもりは思う、人嫌いといわれると返す言葉はないけれど。
 ここで言ってみても詮ないのだが、どうして東京都内に温泉場を作る必要があるのか、さきもりには理解できない。たまには、この豊富のような街を訪れるのも良いと思うのだが。
 日もだいぶ傾いてきたので、風呂を出て食堂に向かう。
 まずはビールを注文する。正直、我ながらよく飲むと思うのだが、体が求めるのだから仕方がない。欲求には素直であった方が賢明という場合もある。
 料理に舌鼓を打つ。さきもりが期待していた宗谷牛のステーキが出た。ビールにステーキとは最高の組み合わせだ。
 辺りを見回すと食事が用意されているのは全部で10人分。夏の観光シーズンとしては寂しい限りだが、これがこの温泉街の現実なのだろう。それでも、ホテルの係の人がよく世話を焼いてくれる。
 満腹になり、ごちそうさまと挨拶をして部屋に向かう。途中、飲み足りない気がしたので自販機からビールとつまみを買う。今夜は部屋で一人宴会だ。
 テレビを点け、見るともなしに見る。我ながら芸のない時間のつぶし方だと思う。夜中の11時を過ぎてから風呂に向かい、再び、温泉につかったりした。急ぐ旅ではない、時間を自由に使えるのも観光の魅力だ。
 翌朝は7時30分に目が覚めてしまった。9字頃まで寝ていたかったのだがいつもの習慣で目が覚めてしまうのだ。
 朝から浴衣を着るのは些か気が引けたが、観光だからと思い直してそのまま朝食に向かう。
 朝食を終えるとホテルの外に出て温泉街をうろつく。
 それにしても小さな温泉街だと思う。温泉の質は良いのだからもっと宣伝に力を入れると客も増えるのではないかと思ったりした。ただ、丘の上から眺めると1枚の絵のような小さいなりに均整のとれた街の造りだった。
 昼食は「ふれあいセンター」という町営の温泉施設に併設された食堂でジンギスカンをビールと共に食べた。程よい暑さも手伝ってジンギスカンの味とビールの喉越しが心地よい。
 ホテルに帰って、昼寝する。休暇は思い切り楽しまなければ損だ。
 1時間ほどして起きて、風呂に入る。
 さきもりは露天風呂が好きだ。あの開放感がたまらない。で、さっそく、露天風呂に向かう。
 露天風呂に入って、目の前に広がる光景に驚かされた。
 遙か向こうに利尻富士が黒く浮かび、その手前に緑の木々、その手前に温泉街が見える。それはまるで1枚の絵を見ているようだった。
 さきもりは、その光景に目を奪われて、身動きもしなかった。
 完全に日が沈み辺りが暗くなったころ、さきもりは夕食を摂りに食堂に向かう。今日のメニューは刺身の盛り合わせと焼いたメンメだ。さきもりは早速、献立にあった日本酒「美少年」を注文して食べた。冷えた日本酒にメンメが合う。
 食事を終えると、早速、露天風呂に向かう。
 空を見上げる。漆黒の闇と言うが、実際は星をちりばめた濃紺の布のようだ。読書をするのでもない限り、この程度の明るさでも十分、夜を楽しめる。
 この露天風呂は夜の9時までとされているので、出ることにする。
 風呂から出るとほてった体をさますために浴衣姿で屋外に出る。夜の街の賑わいが好きなさきもりは、この温泉街にもそれがあるものと思って散策したが、一つもそれらしいものがない。1軒だけ「カラオケスナック」の看板を出している店があったが、その日は休みだった様だ。健全というと聞こえがよいが、さすがにこれでは観光客も寂しがるだろう。余談だが、修学旅行で高校生が訪れるにはもってこいだとは思った。
 ふと空を見上げる。
 さきもりはそれを見たとき、薄く雲がかかっているのだと思った。だが、それは違ってた。
 そこにあるのは天の川だった。
 天にたなびく薄く淡い星の流れ。先人たちがそこに川を見たことも理解できる。そして現代に生きる我々が、そこに天文学的事実以上の何かを見ることが出来ないことも、又、理解できる。我々は何かを無くしたのだと、さきもりは思う。
 ホテルに帰り、何度目かの温泉につかり、眠りについたのが夜中の1時を過ぎていた。
 翌朝、さきもりはホテルの人に豊富駅まで送ってもらった。
 別れ際、その人が
 「お気を付けて、また、いらしてください」
 と笑顔で言ってくれた。
 さきもりも笑顔で
 「また、うかがいます」
と応えた。
 何度でも来たくなる温泉街だと思う。遊ぶためではなく寛ぐための温泉街だと思う。時間を贅沢に使う術がここにはあると思った。
 内地と比較すると万事にノンビリとしているとされる北海道にあって、汽車だけは本州と同様に定時で運行される。そして、この日も稚内から札幌に向かって走る特急「スーパー宗谷2号」は定時運行で豊富駅に到着し、出発した。来たコースを逆に辿り、今住む街を目指す。官舎につくまで約10時間の旅だ。
 たまには一人旅も良いものだ、と一人暮らし20年で、旅行もほとんど一人旅のさきもりは思った。(完)


さきもりの旅日記 稚内、豊富温泉編(3) 2007年09月26日 18時00分28秒
さきもりが旭川駅から乗った特急「サロベツ」号は、札幌稚内間を1日1往復している。
 札幌駅を昼の12時近くに発車するという時刻設定を見ると14系客車をDD51型機関車が牽引して同じ区間を走っていた急行「天北」の後継であることが分かるが、どれほどの需要があるのだろうかと思う。
 この「サロベツ」に使用されている汽車は183系気動車で、要するに「オホーツク」で使用されている車両と同一形式だ。老兵は未だ健在なり、だ。
 基本編成は4両で、この日は1両増えていた。
 この汽車には客室乗務員による車内販売等のサービスもないし、グリーン車も接続されていない。他の特急列車に比べると味気ない気もするが、対稚内連絡という路線の性質からくる需要の少なさを考えるとやむを得ないことなのだろう。
 乗り込んで少し驚いたのは座席の埋まり具合で、7割くらいの座席に乗客が腰掛けていた。
 車内で目に付くのは座席の色で、赤、緑、黄色、緑といった鮮やかな色合いの座席に統一された車内は、何となく華やかな印象がある。
 少し堅めの座席は、長時間腰掛けていても案外と疲れにくいかもしれない。何せ5時間半前後の時間をかけて稚内を目指す汽車だから、乗客を疲れさせないことが第一なのだ。
車内設備で目に付くのは、すべての座席の足下付近の壁に付けられたコンセントだ。「サロベツ」では1つの編成に1両だけ発電機が搭載された車両が連結されていて、その発電能力で6両まで電力を供給できるから、このような設備をしても問題は無いのだろう。
 汽車は、線路をひたすら北上する。
 名寄駅までは高速化工事が行われ線路が改良されている。そのせいもあってか、汽車は滑るようにして走る。その線路の両側は水田地帯のようだ。この辺りの水田で栽培される米の多くが餅米だと聞いたことがある。以前、ヨーロッパの人間にローマ(北緯41度54分)以北で米が栽培されていると説明しても信じてもらえなかったと誰かの本で読んだ記憶があるが、この名寄(北緯44度27分)付近の水田地帯を見たら、彼らは何というのかと思う。
 名寄駅では数人の乗客が乗り込んできた。「サロベツ」には旭川稚内間の連絡という使命もあるのだろう。
線路は名寄駅を出発すると程なくして天塩(てしお)川に沿って蛇行する。
車窓の左側を流れているのは天塩川。
 川岸の所々に海で見られるような波消しブロックが置かれている。晴れたこの日は穏やかだったが、一端、牙をむくと凶暴な流れになるのだろう。
 線路の両側を鉄道林が挟む。
 この天塩川流域は低湿地帯が多く地盤が脆弱なため、植林して地盤の強化を図る必要がある。だから、植えられる木には成長の早い柳などが選ばれる。需要の多い幹線なら大規模な護岸工事などで無理矢理にでも線路の改良が図られることだろうが、この宗谷本線は自然の力を借りながらゆっくりと路盤を強化すると言うことなのだろう。
 さきもりの乗った車内には、関西弁が飛び交っていた。察するに大阪からのツアー客が旭川から乗り込んだようだ。
 皆さん、写真を撮り合ったりして楽しんでいる。沿線の風景に驚いた様子で、牧草畑が見える度に歓声を上げていた。
 旭川駅の売店で買った「北の誉」が効いてきたかして、さきもりは暫し、眠りに落ちた。 「わあ、見てみぃ、あれ」
 乗客の誰かの声で目を覚ましたさきもりが見たものは、水平線の上に黒く浮かぶ利尻富士の山容だった。
 間に蒼く横たわるのは日本海。もうすぐ稚内だ。
見るともなしに利尻富士を眺めていると、ふと目頭が熱くなってきた。
 何故、最北の街を目指して走る特急列車の中で利尻富士を眺めながら泣いているのか、自分自身がわかなかった。たぶん、旅の開放感がそうさせたのだろう。件の団体客の皆さんが大喜びしている様はほほえましかった。
 時計を見ると汽車は定刻で運転されていることが分かる。もうすぐ、稚内だ。
 左に日本海を見ながらビールをやっていると突然といった感じで市街地が見えてきた。 車掌さんのアナウンスが、南稚内駅が近いことを教えてくれる。
 あたふたと網棚から荷物を下ろすとデッキに向かう。
 稚内という街は、この南稚内駅周辺に中心部があるようで、乗客の大半が降車準備を始めた。
 乗客の大半を南稚内駅で降ろした「サロベツ」は、終着の稚内駅を目指して走り去った。
 駅の中には売店と緑の窓口があるが、それ以外は極こじんまりとした造りで、最果ての駅であることが分かる。
 さきもりと一緒におりた人たちの大半は迎えの家族と落ち合うか、駅前で客待ちをしていたタクシーを拾うかしていなくなった。
 さきもりは、この日の宿を目指して両方の手に荷物を持って歩き始めた。
 最北の街は晴れて明るく、暖かかった。
 ホテルに着くとに餅を部屋に置くのもそこそこに風呂に向かう。このホテルの風呂もアトピー性皮膚炎に効果があるのだそうだ。
 風呂から出ると空腹を満たすべく食堂に向かう。
 このホテルの食堂は二つあり、一つは洋風のレストラン風で、もう一つは和風の居酒屋風だ。さきもりは迷わず、居酒屋風に入る。
 まずはビールを飲んだ後に増毛の地酒「国稀」を注文した。 飲み口のすっきりとした、辛口の酒だ。肴には姫ホッケを頼んだ。味に申し分は無かったのだが、何故、小振りのホッケに「姫」という字を付ける必要があるのか分からなかった。続いてホタテの刺身。宗谷管内の猿払(さるふつ)村はホタテの養殖が盛んなことで有名で、このホタテもそこで捕れたものだという。引き締まった貝の歯ごたえと程よい甘みが益々、「国稀」を引き立てる。続いてハッカクを注文した。この魚は初めて見た。チャンチャン焼と同様に魚の上にミリンなどで味付けした味噌乗せ焼いて食べるのたが、味わいがうるさくない。 手元のお品書きを見ると慣れ親しんだ「福司」が載っていたので注文すると、凍る寸前と言うくらいに冷やされて出てきた。これが暖かいその日の天気に合うものだから、ついつい調子に乗ってカレイを焼いてもらう。なんでもその日の朝に契約している江差町の漁師から届けられたものだそうで、申し分のない味だった。
 会計を済ませて部屋に帰る。
 ベッドの枕元の時計を見ると時刻は午後7時30分。夜の街に出かけようかとも思ったが、何せ体がだるいので取りやめた。
 朝の7時40分頃に出発して南稚内駅に着いたのが夕方の5時半前後、疲れなかったというと嘘になるが、しかし、それは決して不愉快な疲労ではなかった。
翌朝は、9時に目が覚めた。
 もとより観光旅行だから急ぐ理由もないわけで、さきもりは、ゆっくりと朝食を取り、それからチェックアウトした。
 南稚内駅に荷物を預け、さてまずはと稚内駅を目指して歩く。
 どことなく街が釧路とにている気がする。地理は産業を決定し、産業は文化を決定するとは以前、誰かの本で読んだ言葉だが、確かに海に面した街同士、似ているのも当然なのだろう。
 街のそこかしこにロシア語の看板が目に付く。釧路にいる限り、ロシアは厄介な隣人という印象だが、一方でこの北辺の地では彼らの存在を抜きにしてはいられないという現実もある。
 歩いて30分程で本邦鉄道最北端の駅、稚内駅に着く。なにせ鉄路はここで途切れているのだ。かの石川啄木なら何と歌っただろうか。
 稚内駅の周辺をぶらつくこと暫し。週末だから少しは人通りがあるかと思ったが、閑散としていた。
 稚内港からは利尻島、礼文島に連絡船が出ている。この島には以前、友人と共に訪れたことがある。夏の今は穏やかな海も冬は厳しいことだろう。苦労が忍ばれる。
 商店街をうろつくこと暫し、稚内港北防波堤ドームに向かう。
 かつてこの港から樺太(現サハリン)の大泊(現コルサコフ)に向かって連絡航路が出ていた。現在は毎週、火曜日から金曜日までの間、フェリーが往復している。
 港町の釧路で、実家の窓を開けると太平洋が見えるという場所で育ったせいか、さきもりは海を見ると何故か気分が落ち着く。潮騒の音、潮の香り、心地よい潮風。この開放感は何物にも代え難い。
 ふと海上に目をやると一隻の船が沖を航行していた。たぶん、利尻や礼文に向かう船だろう。さほどしけているようには見えない海ではあるが、航海の無事を祈った。 
北防波堤ドームを離れ、駅で観光パンフレットをもらい、一路、南稚内駅を目指して歩く。地図によると歩いて15分くらいのところに観光施設があるようなので、そこに向かう。
 途中ぶらぶらと歩きながら市場と食堂街が一緒になったような施設による。中には入るとずらりと海産物やそれを使った料理店が並ぶが、正直言って、釧路でも食べられそうな物を稚内で食べてもと思い迷っていると、屋外にロシア料理店があることが分かり、早速、そちらに向かった。
 その料理店の名前は「ペチカ」と言った。
 中に入って、注文したものは「店長のオススメ」という料理と「一番、売れています」というロシアビール。料理の方はよく覚えていないが、ビールは想像していたよりあっさりとした飲み口で、少し酸味があるように思った。調子に乗ったさきもりは、料理はそこそこで、ビールばかり3種類も飲み干して外に出た。
 ビールが回ってほろよい加減になったさきもりは、ゆっくりと晴れた稚内の街を南に向かって歩いた。
 良い街だと、思う。また、訪れたい街だと思う。来て良かったと、通りを歩きながら、つくづく、思った。
  南稚内駅で汽車を待つこと暫し、例によって時刻表通りに到着した1両だけの鈍行列車にさきもりは乗った。すこし意外だったのは、同じ駅から20人くらいの地元住民といった感じの人たちが乗り込んだことだ。これを見る限り、そこそこ需要はあるのだろう。
 さきもりの乗った鈍行列車は宗谷本線を一路、南下した。さきもりが目指すのは豊富町にある豊富温泉。アトピー性皮膚炎に効果があるといわれる温泉だ。
 豊富駅で汽車を降りたさきもりは、ここから留萌に向かうバスに乗る。途中、豊富温泉を通過する。
 ビールが効いてきたかして眠たくて仕方がないさきもりはどうにかして意識を保ち目指す豊富温泉のバス停で降車した。


さきもりの旅日記 稚内、豊富温泉編(2) 2007年09月22日 21時42分50秒
 網走駅を9時30分に出発して札幌駅に向かう特急「オホーツク4号」は、キハ183系車両4両が基本編成だが、この日は1台足して5両で運行される。
 網走という土地は街の三方を山に囲まれ、正面が海という土地柄で、風向きによっては気温が上がるのだが、この日が正に気温の高い日で、正直言って、駅のホームはやや蒸し暑く感じられたが、汽車に乗り込むと一転して爽やかな空気に満たされていた。察するにそれぞれの車両の空調装置はフル出力で作動しているようだった。
 さきもりは今回、奮発してグリーン車の切符を買った。
 JR北海道の管内では、特急列車は自由席、指定席、グリーン席で料金が違う。
 自由席と指定席では使用される車両は同一だが(スーパーおおぞらは一部の編成について指定席と自由席で車内設備に差を持たせている)料金は指定席の方が少し高くなっている。グリーン席は指定席よりも更に値段が上がるが、その車内設備が格段に改良されていて、「旅を楽しみたい」という人にも魅力的だ(褒めすぎかな?)。余談だが、さきもりの上司は札幌出張の度に往路は普通車指定席で、復路は必ずグリーン席にしたいといっていた。彼曰く仕事で疲れた体で普通車の座席は辛いのだそうだ。
グリーン車に乗ったさきもりは、早速、荷物を網棚に載せて座席の背もたれを限度一杯にまで倒すと座席の肘掛けのところに収納されているテーブルを出し、靴を脱いだ。
 座席の大きさはもちろん、座席同士の間隔にも余裕があるから周囲のことを気にせずにゆったりとした気分に浸ることが出来る。
 見るともなしに車窓を眺めていると駅員が白旗を振ったのが見え、続いて体が椅子に押しつけられるような感覚を覚え、窓の外の景色が動き始めた。汽車が発車したのだ。
 車内放送に耳を傾けながら車窓に広がる網走湖をみる。湖岸には旅行者のテントが群れをなし、湖上では数艘のボートが浮かぶ。それぞれに夏を楽しんでいるようだ。
 発車後まもなく、女性の客室乗務員が飲み物の無料サービスの注文を聞きに来た。
 JR北海道の特急列車には必ず客室乗務員が乗務していて、車内販売や乗客の世話に当たる。この日はスラリと背の高い笑顔の美しい若い女性だった。
 乗車直後、遠軽名物のかに飯を彼女に注文したさきもりは、グリーン車の乗客にサービスされる緑茶を飲むと居眠りを始めた。寝ていても目的地まで安全に運んでくれるのが汽車の旅の良いところだ。
何となく大きな音を聞いた気がして目を覚ますと、車窓から見えていたのは遠軽駅だった。
 この遠軽駅ではスイッチバック方式がとられ、汽車は先頭と後尾が逆となり、乗客たちも座席を回転させる。さきもりも座席を回転させた。
 停車1分で汽車は走り出した。
 遠軽駅からグリーン車に乗ってきた乗客は5名。、おかげでほぼ満席となった。グリーン車でこの具合だから、普通車でも結構な乗車率なのだろう。鉄道の場合、乗車率7割で採算が合うと聞いたことがあるから、この列車に関する限り赤字運転と言うことはないだろう。
 車窓に流れるのは北見盆地の水田や畑。夏の真っ盛りのことだから緑が濃い。たぶん、蝉が鳴き声を上げていることだろう。その田畑の向こうには山脈が見える。
 「あお」という言葉は、大和古語では「あいまいな」という意味でも使われていたと何かの本で読んだことがあるが、言われてみると、遠くの山々は空の青にとけ込んで木々と空との境目がはっきりとはしなくなっている。
 遠軽駅を出発してまもなく、予約していたかに飯とビールを客室乗務員から受け取ると、早速、あけて食べ始めた。
 昼間からビールとかに飯、何とも贅沢だとは思うが、これが無ければせっかくの観光の意味がない(!)。
 汽車は遠軽駅を発車して30分ほどで北見峠にさしかかる。
 この峠は道内でも有数の難所で、線路脇の所々に「速度制限50」の標識が立てられている。時速50キロでは特急列車用車両にとっては正に足かせといったところだろうが、それほどに急カーブが続くのだ。その割に汽車が揺れたり傾いたりする感じがしないのは何故なのか、不思議には思った。
 僅かな直線区間にはいると途端にエンジンを吹かして速度を上げ、カーブにさしかかるとブレーキで減速するという操作をこまめに繰り返し、汽車は上越(かみこし)信号場についた。
 冬なら氷雪に閉ざされ荒涼とした感じがするであろうこの信号場も、周囲の山々の緑が濃いこの時期には長閑な山間の駅の風情が漂う。尤も、この辺りは過疎化が進み住民がいなくなったものだから、駅も業務を廃止して信号場になったのだが。
 汽車は上越信号上通過直後、速度を上げた。峠を下り、次の停車駅、上川駅を目指す。
 1時を少し回った頃、特急「オホーツク4号」は旭川駅に着いた。
 さきもりはここで汽車に別れを告げてホームにおりた。因みに、グリーン席の乗客は申し出ていなくても客室乗務員が旭川駅が近いことを知らせに来てくれる。このサービスがあると乗り過ごす心配はない。
 ホームにおりると、途端に熱に包まれた。さすがに道央の旭川の夏は暑い。「オホーツク号」の冷房が効いて爽やかな車内が懐かしくなった。
 することがないので、一度、改札口を出て荷物を預け、稚内行きの汽車が到着するまでの間、駅舎で待つことにする。
この旭川と札幌の間を走る特急列車はJR北海道にとっては生命線とも言われる。従って駅舎も豪華、という訳にはいかず、失礼ながら年代物といった感じが免れない。尤も、駅の敷地内では高架化工事が進められていて、数年後には新しい駅がお目見えすることだろう。
 駅の中にある喫茶店で、その日の朝刊を読みながらコーヒーを飲んで時間をつぶすこと約30分、ふと時計に目をやると、稚内行きの汽車の発車時刻が迫っていた。
 支払いを終え、改札を通り、先ほど「オホーツク4号」からおりたホームに向かった。
 5分ほど待つと札幌発稚内行き特急「サロベツ」が駅に進入してきた。
 さきもりにとってはこの夏のメインイベント、道北旅行の往路の後半、旭川から稚内までの汽車の旅が始まろうとしていた。


さきもりの旅日記 稚内、豊富温泉編 2007年09月19日 00時36分18秒
 旅立ちの朝は雨だった、街は光の底で濡れていた、などと書くと格好良いかもしれないが、実際のところは前夜のあまりの暑さのせいで寝不足になり赤い目をこすりながら最寄り駅のホームで汽車を待っていたさきもり。
 職場の同僚たちは夏休みを取って思い思いに過ごすのに、さきもりは何もない。何もない、のは寂しいが、さて、どうしようと考えても出てくる答えは「予定がない」だけ。これでは悲しいので、強引に予定を作ることにした。で、出来た予定は「道北の豊富温泉を目指そう」というものだった。この温泉はアトピー性皮膚炎に効果があるのだそうで、小樽で開業している皮膚科医が患者さんたちを連れて訪れると地元紙で読んだことがある。ベテラン患者のさきもりはこの温泉につかって少しでも症状の改善を期することにした。
 8月半ばの週末のその日、小雨模様のホームで待つこと暫し、ジーゼルエンジンの音も高らかに釧路から網走を目指して走る一両だけの鈍行列車が入線してきた。
 車内に乗り込んで見回すと乗客はさきもりを含めて8人と決して多くはない。
 釧網本線とは言うけれど沿線の経済は、網走市を中心にした地域と釧路市を中心とした地域にはっきりと分かれていて、両者の交流は弱い。また、沿線の人口密度も希薄で、例えば札幌圏ならビジネスや通勤客の需要も期待できるだろうが、この道東の地にあっては、通学客を除くと観光客が利用するくらいで、通勤等の足に汽車を使う人は余りいない。鉄道会社の嘆きが察せられる。
 汽車は発車してまもなく峠にさしかかる。
 冬は雪に覆われるこの峠道も、今の時期には緑に覆われる。線路脇にはフキが生い茂り、木々の緑が映える。線路脇の樹木に目をこらすと所々の木の枝が切られた後がある。たぶん、鉄道運行の障害になりそうな枝を係の人が打ったのだろう。
 人間同様に上り坂では苦しそうにあえぎながら走っていた汽車も下り坂では快適に軽やかに走る。エンジン音もこころなしか小さくなったようだ。
 峠を下りると、しばらくは平坦な地形が続く。
  沿線の小清水町や斜里町は本州のお菓子メーカーの契約農場となっているジャガイモ農家が多いから、視界一面に広がる畑もその畑なのではあるまいか。
 ふと車窓に目をやると、地平線の向こう側に山が見えた。
 抜けるような青空の下、緑あやなす畑の向こうに青黒く横たわる、それはまるで1枚の油絵のような景色だった。
 汽車は知床斜里駅に着いた。
 世界自然遺産に登録された知床半島の北側に位置する斜里町は面積が約737平方キロで人口が約一万三千人前後という街だ(余談だが、兵庫県姫路市は面積が約534平方キロで人口が53万人という。さきもりからすると明らかに定員オーバーに思える)。主要な産業は漁業と農業、そして、観光業で、夏には多くの観光客で賑わう。因みに、「知床」という地名は半ば俗称で、知床温泉のある辺りは行政上は「宇登呂」と称される。 
知床斜里駅では、沢山の人が乗り込んできた。どうも見たところ、団体旅行と高校生の様だ。やはり夏の観光シーズンだけあって、そこそこの需要は期待できるのだろう。
 がらあきだった車内はいっぺんに満員となり、座席に座ることが出来ない人が出るほどになった。こういうときに備えて車両を増結するなどの機動的運用を鉄道会社に期待するのは、たぶん、わがままなのだろう。
 満員の乗客を乗せた故か、汽車は幾分、重たげに発車した。
 真っ直ぐ延びた線路の上を汽車は軽やかに走り行く。網走に向かって右側にはオホーツク海が蒼く横たわる。
 このオホーツク海沿岸一帯では、北方少数民族の生活の痕跡を示す遺跡が幾つか発見されている。
 穏やかな季節はともかく、荒れ狂う冬のオホーツク海を目の当たりにして、彼らは何を思い、そして、何を願ったのだろうか。
 知床斜里駅を出発して20分ほどして、汽車は浜小清水駅に着く。この駅の辺りは原生花園が広がっていて、下手の横好きの写真家のさきもりにとっては絶好の遊び場だ。ただ、夏のこの時期は、本州や外国からの新婚旅行と思しき客が多いのが腹立たしい(!)。
 知床斜里駅を出発して40分ほどで、さきもりたちの乗った満員の汽車は網走駅に到着した。既に1番線には特急オホーツク4号が待ちかまえている。さきもりは、旅行鞄を手に、いそいそと汽車を降り、ホームの階段を上った。

寒月涙酒 2007年06月16日 21時53分32秒
遊ばせてください。
 
 私、今、窓を開け放してお月様をみています。釧路の冬の夜は寒いですね、お母さん。 私、今でも覚えているんです、悪いことをして少年院に入れられた最初の夜に独房の窓から見えた月も、まん丸でした。そして、あの日も寒い日でした。
 私、少年院に入れられても悲しくなんか無かった、だって、外の世界では誰も私を必要としていないことは知っていましたから。ただ、月の白さと明るさにびっくりしました。夜のネオン街でみた月とはまるで別物でした。あの頃の月はいつも煙草の煙と涙で濁って歪んで見えましたから。
 お母さん、私が少年院の中で風邪を引いてこじれて病室に移った時、担当の教官がなんて言ったと思いますか?
 「頑張って、早くよくなろうね。私も頑張るから」
 私、怒られたり殴られたりしたことはあっても励まされたことは一度も無かった。まして、頭をなでながら優しい言葉をかけてくれる人なんて一人もいなかった。
 私、そのとき、生まれて初めて嬉しくて、泣きました。泣くことに飽きていた私が、泣きました。
 私が少年院を退院する日、お母さん、迎えに来てくれませんでしたね。それは良いんです、私、期待していませんでしたから。担当の教官が、ごめんね、連絡したんだけど、って申し訳なさそうに言ってたけど私、気にしてませんでした。帰住調整で私の引き取りを拒否するくらいですもの、迎えになんて来てくれるわけがないと思っていました。ただ、私が釧路の保護司さんの家に着いたときに、お母さんが電話をくれたのが寂しかった。詫びてなんか欲しくはなかったけど手紙の一枚くらい書いて欲しかった。それくらいの時間すら私のためには使えないと言うことなのですね。
 私、今、釧路の病院で働いています。看護助手だから資格はいりません。体力はいるけれど慣れてしまえば平気です。
 私、今日、プロポーズされたんです。相手は同じ病院のレントゲン技師さん。
 私、彼に私のことを全部、話しました。そしたら彼、気にしないって言ってくれたんです。
 彼、私に言ったんです、お前が俺には必要だ、って。
 信じられますか、お母さん、実の母親の貴女にさえ、お前はいらないと言われ続けた私を必要だって言ってくれる人がいるなんて。
 あの人、私のアパートが古くて寒いって言ったら、これを飲めば少しは暖まるよって、ウイスキーをくれたんです。おかしいでしょ、女の子にウイスキーをくれる人なんて。あの人、そんな人なんです。
私、あの人の妻になります。そして、もう貴女とは他人になりますね。
 私、これからの人生を彼と二人だけで生きていこうと決めたんです。これでやっと貴女は私の母親から解放されますね。
 母親の貴女とは血以外に何もつながることができなかった私だけど、あの人と気持ちをつなげてこれからの人生を生きていきます。
 さようなら、お母さん、お元気で。
 大きな幸せは大きな悲しみとともに訪れるのかもしれません。傷つき疲れ、それでも真っ直ぐに生きていこうとする、そんな健気な貴方の傍らでお供したい、***ウイスキーです。
(フィクションです)

さきもりの旅日記 糠平温泉編(5) 2007年03月24日 20時34分46秒
 平日は朝7時頃に起床するさきもりは、翌日は、旅行気分と前日の移動の疲れが相俟って8時30分頃に起床した。
 朝、目が覚めると早速、朝食会場に向かう。場所は昨日と同じ食堂だ。
 北海道のホテルの朝食は圧倒的にバイキング形式が多いと聞く。客が自分の好みの食材を選ぶことが出来るのだから、一見、民主的(?)だが、実は、この形式が省力化の要請に最も適うのだそうだ。自我の肥大した現代人には「自分で選べる」ということが何よりの価値と言うことなのだろう。
 このホテルでの朝食もバイキング形式ではあった。だが、それは、例えば札幌都心に立地するビジネスホテルのそれとは大分、趣を異にする。
 何が違うのか、しばし、さきもりは考えた。そして、一つの結論に達した。材料に極力、地元、十勝地方の産品が使われているのだ。フキの煮付けといい、味噌汁の味噌といい、納豆といい、正に日本の穀倉を自他共に許す十勝を食べる者をして感じさせるに十分な料理だった。普段、官舎でトーストにオレンジジュースにヨーグルトという至って簡素な朝食ですませているさきもりからすると、その朝食は正にご馳走だった。
 朝食後、少しと間合いを置いてさきもりは屋外に出た。目指すは糠平温泉スキー場だ。
 宿から徒歩で5分ほどの山の斜面に開かれたスキー場は本州の某大手資本が開設したもので、温泉街にすると冬場の集客の要のようなものだろうが、スキー離れが言われる今日日、こころなしか空いているように思われた。
 スキー用具一式をロッジで借りて、いざゲレンデへ。
 案内の看板を見ると、このスキー場には上級、中級、ファミリーコースの3つのゲレンデがあることが分かる。
 上級コースは山の頂上から滑り降りてくるコースで、看板には「絶景のパノラマの中で華麗にシュプールを」と言ったことが書いてあるが、怪我を承知で大雪連峰を眺めようとは思わないので遠慮した。
 中級コースは上級ほどでは無いが、相当な難易度のコースらしく、これも眺めるだけにする。
 さきもりは「ファミリーコース」のリフトを選んだ。なによりも「お子様でも大丈夫」と看板に明記してあるから、これなら、と思ったのだ。さきもりとしては、幼児がソリに乗って雪の斜面を滑り降りて遊ぶ冬の北海道のほほえましい光景を思い浮かべたのだ。
 「ファミリーコース」のリフトの終点でリフトを降りて、さきもりは驚いた。
 そこから眼下に広がるのは、非常に急な斜面だった。かてて加えて、角度からして致し方のないことなのだろうが、麓に立つ温泉旅館につっこみそうな錯覚を覚えた。
 このコースをして「ファミリー」向けと断じたスキー場関係者の神経をさきもりは疑う。 さきもりは、自身がスキーを肩に担いでとぼとぼと下りゆく光景を思い浮かべた。
 とにもかくにも度胸を決めて、さきもりは斜面を滑り降り始めた。
 スキーなど凡そ5年ぶりで運動神経ゼロときているから、文字通りスリルとサスペンスの世界なのだが、これが意外と面白い。体裁さえ気にしなければ急と見えた斜面も一応は滑り降りることが出来る。
 おそらく熟練の人なら3分でおりられるであろうコースをさきもりは20分近くかけて滑った。そして、再び、リフトを目指して不格好に歩き始めた。人間、楽しめればよいのだ。見栄や体裁は二の次だ。
 二度目のリフト降り場。晴天の下、さきもりはしばし眼下に広がる光景に見とれて立ち止まった。悔しいのは、どうみても小学校低学年と思われる女の子がスイスイとさきもりの脇を抜けて滑り降りていったことだ。幼子にはこの光景の意味など分かるまい。
 ファミリーコースで楽しく悪戦苦闘した次にさきもりが向かったのは「東大雪博物館」だ。
 博物館の見学者はさきもり一人。聞こえるのはストーブの運転音だけ。うら寂しいようにも思うが、これだけの展示物の見学を独占できるのはありがたい。
 この博物館には大雪山系の成り立ちから地質、そこに生息する動植物を素人にもわかりやすく展示してある。この分野に専門知識のないさきもりではあるけれど十分に楽しめる。
 1時間ほど博物館を見学した後に向かったのは糠平湖だ。
 元々、この辺りを流れる糠平川をせき止めてダムを建設したことにより生まれた人造湖なのだが、今は観光スポットにもなっている。
 散策路から少し外れて湖に向かって5分ほども歩くと到着だ。
 太陽が大雪の山並みに隠れ始める時刻の湖は白一色に覆われていた。湖面にテントを張って釣りをしている人がいるのが見える。何が釣れているのだろうか、この季節ならワカサギだろうか。
 ふと遠くに目をこらすと鹿の小さな群れが見えた。餌を探しに来たのか、それとも道に迷いでもしたか。湖面につもった雪の上をはねるように動き回っているのを見ると或いは雪遊びの最中なのかもしれない。
 まもなく夕闇の訪れる糠平湖は静まりかえっていた。一人、氷の上にたたずみ凍結した湖面を眺めていると何も考えていない自分に気がつく。寒ささえも忘れて、呼吸以外の一切の挙動をやめた自分という存在はひどくちっぽけなものに思えてくる。或いは「無の境地」とはこのようなことなのかとさきもりは思った。
 宿に戻ったさきもりは、まずはお気に入りの露天風呂で凍えた体を温めた。
 前日に比べて気温が低いとは思ったが、肩まで湯につかり、雪を乗せた庭木の枝を眺めると、気温の低さなど気にならない。宿に入るなり買った日本酒が効いてきたかして、とにかく眠い。寛ぐとはこういう心境になるということなのだろう。
 風呂から出ると部屋に向かう。
 今日は大学生のスキーサークルが投宿だそうで、前日に比べて格段に賑やかだ。やはり温泉宿は少しは賑わいがあった方が良い。
 宿の廊下ですれ違った女子学生とおぼしき人が、壁に掛けてある糠平一帯の冬の光景を撮した写真を見て盛んに歓声を上げている。さきもりからするとどの写真の被写体も北海道の冬の平凡な光景なのだが、彼女からにすると別世界の出来事なのだろう。
 一風呂浴びて酒も回り始め、正に極楽気分となったさきもりは食堂に向かう。
 この夜は家族連れや件のスキーサークルの面々で前夜で格段に賑やかだ。
 ざっと数えてみると40人ほどの客が食堂に入っている。皆、料理に舌鼓を打っている。さきもりも指定された座席に着く。出された夕食は前夜とは献立がかなり違っているが、やはり、旨い。料理に疎いさきもりだからここで詳細を語ることは出来ないが、さきもりの口に合うものばかりだ。
 感心させられるのは宿の従業員たちの客への心配りだ。控えめながらも客に細やかに世話を焼く。前夜はさきもり一人の夕食だったが、この夜は団体客で賑わっているから労力も大変なものだと思うのだが、それを感じさせずに客をもてなしていた。
 夕食を終えて部屋に戻ったさきもりは、廊下の自動販売機で買った缶ビールを空けた。 部屋にしかれた布団に大の字になり、無言で天井の電灯を見上げた。
 糠平温泉に来て良かった、さきもりはつくづくそう思った。内風呂も露天風呂も共に良かったし、温泉街全体の佇まいも気に入った。そしてなによりも宿泊した「N」旅館のご主人をはじめとした人たちのもてなしが、さきもりをして日常の雑事から解放し寛がせてくれた。それはたぶん、「仕事だから」という意識を超えた、客を楽しませようという「心意気」がこの旅館全体に根付いているからなのだろうとさきもりは思う。 
 翌朝、朝食を取り終えたるとさきもりは、帯広駅までの連絡バスの時間を宿の人に聞いた。ふと見るとご主人が作業着に着替えて何やら大工仕事の真っ最中だ。万事が手作りが方針なのだろう。露天風呂の脱衣場もご主人の手になるものだそうだ。
 宿の人と別れの挨拶を交わしてさきもりは、バスの停留所に向かった。
 帯広駅から釧路まで特急で、そこからは鈍行で任地まで帰った。沿線の風景は往路と変わらず道東の冬景色だ。
 糠平温泉の「N」旅館の皆様、そして、温泉街の皆様、本当にありがとうございました。さきもりは、良い宿に出会えたとつくづく思います。また伺いますので、幾久しくご壮健であることを祈ります。(完)


さきもりの旅日記 糠平温泉編(4) 2007年03月02日 23時16分59秒
 呼吸する度に鼻の奥が痛くなるような、さきもりからすると幼い頃から慣れ親しんだ寒さに包まれた糠平の温泉街は、夜のとばりの底にあった。
 停留所でバスを降りたさきもりは、荷物片手に坂道を上った。街灯も疎らで暗くてよく見えないが、さきもりの目指す宿はバス停から200メートルくらいのところにあった。 早速、電話で予約した「N」という宿に入る。
 受付では宿のご主人が待っていてくれた。
 「ようこそ糠平温泉へ。お疲れでしょう」
 ご主人が満面の笑顔で迎えてくれる。
 玄関ではお香が焚き込められ仄かな香りが漂う。 
 20畳ほどもあるかと思われるロビーには大型のテレビと応接セット、そして、本棚とオーディオ機器、大きな柱時計がおいてある。
 受付をすませると、荷物を持ってくれだご主人の後について部屋に案内される。ちなみにこの日の宿泊客はさきもりを含めて3人しかいないという。
 部屋に備え付けられたクローゼットを見るとハンガーが4つあり、それぞれにどてらが掛かっているから本当なら4人部屋なのだろうが、その日はさきもりが一人で使うことになる。何とも贅沢な話だ。
 部屋はさきもりが到着するだいぶ前からストーブが点けられていたと見えて暖かい。が、窓のガラスには室内の空気中の水分が氷となって付着している。その白くなった窓から暗い通りを見下ろす。
 誰も歩いていない。温泉街という言葉につきまとう、賑わいや華やぎとは対極にある世界が広がっている。
 とにもかくにも、まず食事だ。
 浴衣の着方が下手なさきもりは、だから、荷物として持ってきたジャージに着替えて食堂に向かう。
 さきもりの知人が旅館の食事を評して味気ないといったことがある。さもありなんで、日頃、飽食の中に暮らすさきもりたちが、食べ物で感激することは少ない。まして、味音痴なさきもりだもの、正直、食事には期待していなかった。
 食堂は暖かかった。ストーブの音が高くないのに気温を維持していると言うことは客のことを考えて相当の時間を運転していたのだろう。
 用意された席に着くと食前酒が出される。いくつかある種類の中からさきもりはヤマブドウのそれを選んだ。
 早速、テーブルの上に並んだ料理に箸を付ける。
 本州から渡ってきて未だ3ヶ月しかたっていないというアルバイトの女性従業員が懸命に、しかし、決して押しつけがましさを感じされない丁寧さで料理の説明をしてくれる。 旨い、と思った。
 味も良い。そして、器や盛りつけも食べる側の食欲をそそる工夫がなされている。カメラを持っていなかった自分が悔やまれた。
 その時、食堂の中に流れていたBGMは女声のジャズ。
 寒い夜、暖かい建物の中で、低く流れるジャズを聴きながら料理の味を楽しむ。正に至福の、そして、贅沢の極みのひとときだ。
 このとき飲んだ日本酒は初めて口にする銘柄で、名前は失念したが富山の産の辛口の酒だった。富山というと昔、さきもりが一方的に思いを寄せて、相手には何も告げることが出来ずに別れてしまった女性の出身地だ。
「富山、か」
 ふと口をついて出た一言に、そのアルバイトの女性は
「何か、思い出でも」
 と話しかけてきた。
「大学時代の友人が住んでいるんです。今度遊びに行こうと思って」
 正直が常に最善の選択であるとは限らないのだ。
 彼女は優しくほほえんだ。
 これから風呂に入る予定があるさきもりは、だから酒は控えめにして食事を終えるといったん部屋に戻って、着替えの下着を手にすると風呂に向かう。目指すは露天風呂だ。 
 一体に、温泉旅館と聞いて期待するのは人それぞれだろうが、さきもりは何をおいても露天風呂に期待する。同じ温泉でも屋内のそれは何だか銭湯に入っているようで味気ない。
 この宿のご主人は大工仕事も得意な方だそうで、旅館のあちこちがその手によって増改築されている。
 露天風呂もそうで、爽やかな白木で作られた脱衣場は清潔が保たれていて使う側の心理に配慮されている。
 露天風呂に入る。
 丁度良い湯加減。温泉というと熱いという先入観を持つさきもりは、ここの湯加減が気に入った。ぬるからず熱からず、正に心身ともに強張りを解くには丁度良い温かさだ。
 音というのは、ただ、湯口から流れ出る温泉と、時々、弱く吹く風に揺らされる木の葉が擦れるそれだけ。明かりというはただ脱衣所とこの風呂を照らす照明と月明かりだけ。正に静謐の中だ。
 肩まで湯船につかりながら、ふと目をこらすと降ってきては湯の中に舞いおりる何かが見える。
 雪だ。空を見上げると月の半分ほどは雲に覆われている。たぶん、あの雲から舞い降りた雪がさきもりの目の前で湯の中に溶けてくのだ。
 夜の闇のそこで、ひとりさきもりは溶けゆく白い雪を眺めていた。
 開放感と充実感に満たされたさきもりは1時間ほども露天風呂に入ってから部屋に戻った。
 18歳の時に大学に進むために実家を離れてから20年、38歳の今年まで一人で暮らしてきたさきもりだから、一人でいることには慣れている。だから、部屋に帰って宿の人が引いてくれた布団の上に大の字になっても、寂しい、とは思わないはずだった。しかし、食事中に飲んだ酒がそうさせたのか、急に話し相手が欲しくなった。で、早速、ロビーに向かう。
 夜中のこととて、また、3人しか宿泊客のないその日だから、当然なのだが、ロビーには誰もいない。
 壁を背にして置かれた本棚には、たぶん、ご主人の趣味と思われる写真集や小説が並べられている。さきもりはその中から藤沢周平の短編集を手にした。
 ロッキングチェアーに腰掛け、自販機で買ったビールを片手に小説を読む。
 柱時計が正確に時を刻む。
 時計は何のためにあるのだろう。仕事以外で時間を意識する必要がある人たちが、この世の中にどれだけいるのだろう。気ままな一人旅のさきもりにとって、時計とは、あまり大きな意味をなさない。時間を無駄に出来ると言うことの贅沢にさきもりは、浸った。
 2時を少し過ぎた頃、さきもりは部屋に戻った。
 疲れた一日だった。だが決して不愉快な疲労ではなかった。不思議と開放感を覚える疲れだった。その心地よい疲れの中で、さきもりは眠りについた。

さきもりの旅日記 糠平温泉編(3) 2007年02月16日 21時33分53秒
言わずもがなだが、北海道の鉄道ダイヤは対札幌連絡を基準に作られている。そして、バスの時間も札幌と他の都市とを結ぶ下り特急やそれとの連絡列車にあわせていることが多い。
 帯広駅から糠平温泉までの連絡列車も札幌からの下り特急の帯広駅到着にあわせて発車時間が決められている。
 釧路から乗った特急から降りたさきもりは、糠平温泉へのバスの発車時刻までの間、帯広駅構内の喫茶店で時間をつぶすことにした。
 平日の昼間と言うこともあってか駅には人影が少ない。小さな食堂街があって、中をのぞいてみたが、一様にヒマそうだった。あの様子では大もうけというわけにはいかないだろう。
 バスの時刻が迫り、さきもりはバスターミナルへと向かった。
 さきもりと一緒に帯広駅前のバスターミナルから乗り込んだ乗客は15人ほどだった。見たところ通学客が少ないようだったのは、学校が冬休みだったからだろう。
 バスはクラクションを短く鳴らすとターミナルを定時に発車した。
 バスの中はエンジン音以外は聞こえない。通路を挟んで隣の一人がけの椅子に座った、年の頃なら還暦過ぎと思われる少し太った体を防寒着に包んだ婦人は目を閉じている。あるいはうたた寝を始めたのだろうか。外気温はマイナス10度ほどで車内は暖房が効いているから、心地よくなり眠気を催すのも無理からぬことだ。
 帯広市は十勝開拓の拠点として作られた街で、だから、道路も碁盤の目上に造られている。バス停の名前も「大通り何丁目」という具合で単純に番号を打っただけだ。味気ないと言えばいえるし北海道らしいとも言える。
 おそらくは帯広の街の中心街と思われる通りを走っても賑わいを感じない。釧路と同様にシャッターを下ろした店が多い。かつては多くの人でにぎわったであろう町並みも今はあえぎ声を上げているかのようだ。
 駅前ターミナルを出発してから30分ほどで、バスは帯広の郊外にでた。
 ここまでくるとバスの乗客はさきもりを含めて5人ほど。寂しいものだと思う。
 旅行後に知ったのだが、このバス路線は旧国鉄が士幌線廃止後に開設された代替路線だ。士幌線が営業していた頃を全く知らないさきもりではあるけれど、バスの乗客数を見る限り、それが廃止されたのも無理はないだろう。
 バスは糠平温泉を目指して一路、国道を北上する。
 バス亭は、例えば「士幌12線」「士幌13線」という具合に、道路の名前ごとにもうけられている。これが歴史のある本州の街なら、それ相応の名称がつけられるのだろうが、何せ北海道のこと、辺りに広がるのは地平線まで伸びる農地とあっては、目印となるのは道路ぐらいのものなのだ。
 道路の所々に雪の吹きだまりがあるのが見える。バスの運転手は慣れた様子だったが、よそ者のさきもりには不意に白い固まりが目に飛び込んでいるような感覚を覚える。公共交通機関での移動を選んで良かったと思うのは、こういうときだ。
 帯広駅前ターミナルを出てから1時間半ほどして、バスは「黒石平」というバス亭を通過した。かつて、十勝石としても知られる黒曜石の産地が近くにあったことからこの名称があると車内アナウンスで知らせてくれる。そして、そのバス停を過ぎてまもなく、バスは終点の糠平温泉ターミナルに着いた。
 ここまで帯広から乗り通した乗客はさきもりを含めて4人。バス会社の苦労が忍ばれる。 その、乗り合わせた乗客同士が会話をするでもない風景は何となく都会の通勤風景を連想させる。一人旅はあくまでも一人旅なのだ。
 たかだか1時間半ほどとはいえ、椅子に腰掛けたまま同じ姿勢でいるのは、やはり疲れる。
 バスから降りたさきもりは、思い切り背伸びをした。
 暖房の効いたバスの車内からいきなり十勝の冷気に晒されたものだから、眼鏡が曇った。寒暖計が手近にないから正確な温度を知ることはできないが、息をする度に鼻の奥が痛くなるから少なくともマイナス15度くらいまでは気温が下がっているのではあるまいか。流石、十勝、冬らしい冬がある。
 僅かな着替えと洗面道具などを入れたバッグを片手に持ったさきもりは、電話で予約した宿を目指して歩き始めた。
 北海道のへそに近い温泉街は、十勝の夜の底でひっそりと肩を寄せ合うようにして客を待っていた。

さきもりの旅日記 糠平温泉編(2) 2007年02月04日 23時54分06秒
 道路網が未整備だった時代、釧路駅は貨物はもちろんのこと、旅客でもにぎわった。釧路には旧国鉄の地方鉄道管理局が置かれ、駅の敷地と一本の国道を挟んで隣り合わせに道東地方一円の車両整備を担った釧路機関区があった。ちなみにこの釧路機関区が左派国労の発祥の地となっている。
 今の釧路駅に昔日の賑わいは無い。人口18万人の街の陸の玄関口としては、あるいはこんなものなのかもしれないが、さきもりなどからすると些か寂寥の念を禁じ得ない。
 釧網線を南下し釧路駅の3番線ホームにさきもりたちの乗った一両編成のローカル列車は着いた。駅舎側にある1番線ホームには既に「スーパーおおぞら8号」が停車している。 さきもりは、小走りで駅の地下道を抜けると、列車の車内に乗り込んだ。
 ホームには往年の流行歌「釧路の駅でさようなら」が流されている。が、轟々たるエンジン音でかき消され車内に乗り込んでしまうと、正直言ってほとんど聞き取れない。ということは、あの曲は専ら見送りに来た人たちに向けて流されているのだろう。
 今から40年以上前、札幌釧路間は特急列車でも8時間以上かかっていた。だから、札幌出張ともなると昼間の特急よりも夜行急行が人気で、切符がとり辛いこともあったという。当時は新得から狩勝峠を越えて芦別、赤平を通り滝川で函館本線と合流して札幌に向かった。その後、車両の性能向上もあり、釧路から札幌まで6時間程度で走るようにはなったが、それでも、釧路の住民にとって札幌は、たとえば日帰り出張できる街ではなかった。それが、バイパス道としての石勝線の開通とと旧国鉄技術陣が意地を見せた183系汽動車の投入で事情は変わった。
 その当時、釧路駅に「札幌日帰り出張ができるようになりました」と書かれた大きな横断幕を掲げていたことをさきもりは覚えている。旧国鉄にとっては面目躍如の思いだったろう。
 さきもりが数え切れないくらい乗ったキハ183系は石勝線開業に併せて国鉄が投入した車両だ。それまでの車両に比べてエンジン出力を増大させて高速化が図られていた。特に発車の時、座席の背もたれに体が押しつけられるような感覚を覚えたときは、その加速性能の高さに感心したものだ。更に、よく整備されたレールとも相まって滑るようにして走っていた。そして、今、同じ札幌釧路間を283系汽動車が疾駆する。
 キハ283系汽動車。1両に355馬力のジーゼルエンジンを2台積み、最大で130キロの運転が可能になった車両。そして何より非電化区間を走る車両としては国内で初めてカーブで車体を遠心力を打ち消す方向に傾けて走る「振り子」装置が取り付けられた車両だ。今、札幌釧路間を最短で3時間48分で結ばれた。
 さきもりの予測は的中して車内は混んでいた。車内放送では指定席はすべて満席と告げている。この分では自由席も座れそうにない。どうせ帯広までのことと割り切ってさきもりはデッキに立つことにした。 
さきもりが乗り込んでからまもなく、汽車のドアが静かに閉まった。そのドアの窓ガラスの向こうに見えた駅員が頭を左右に振って異常がないことを確認したかと思うと手にした旗を上げた。
 710馬力の作り出す推進力は伊達ではない。ぐん、という加速感がさきもりの体を押した。足に力を入れて体を支える。ふと窓の外に目をやると天井に取り付けられた排気管から勢いよく排気が流れている影が見える。
 汽車は釧路駅の構内を抜けると釧路川にかけられた鉄橋を渡り、新富士駅にさしかかる。貨物列車に積まれたコンテナが吹っ飛んでいくような錯覚を覚える。
車内アナウンスでは、この列車は10両が連結されているが、それでも指定席は満席だという。振り子式特急列車が投入されてから、札幌釧路間の航空便が2便減便されたと聞く。この汽車を見ただけで判断はできないが、飛行機から相当数の乗客を奪ったとしても不思議ではない。
 列車は釧路の隣町、白糠町恋問の辺りから国道38号線と並行して走る。
 国道を走る自動車がどんどん後退していくように見える。さきもりは乗客に過ぎないのだが、少し優越感にかられる。流石、国内非電化区間を走る特急で最速を謳われるだけのことはある。
 道路の所々がアイスバーンになっているのが見える。
 もともとこの辺りは海からの風をまともに受けるから吹きだまりができやすいのだ。そしてそれが昼間の陽光で溶け夜間の冷気で凍るとアイスバーンになる。さきもりが冬期間はなるべく公共交通機関を利用するようにしているのもこの路面状況を恐れてのことだ。命は一つしかないのだ。汽車の乗客なら、たとえ酒で酔っぱらっていても安心して良い。 さきもりの乗った列車は白糠駅で僅かな時間停車すると次の池田駅を目指して走り出した。
 元々、この辺りは湿地帯だったところで地盤が弱い。だから、線路を敷設するときも少しでも強いところを辿ったから、結果としてカーブの多い線形となった。こういう線形でこそ振り子式特急列車の本領発揮だ。
普通列車はもちろん、特急列車でもこのカーブの多い線形には手こずる。それを振り子式特急は車体を傾斜させながら速度を維持したまま通過していく。車内からはわかりにくいのだが、この特急列車は最大で6度車体が傾斜する。おそらく、この辺りではその性能が最大限に発揮されていることだろう。
 釧路市の尺別辺りから線路は十勝管内の池田町を目指す。池田を過ぎると帯広まであと少しだ。
 釧路を出発してから2時間ほどして列車は帯広駅に滑り込んだ。ここから糠平温泉まではバスが出ている。ただ、バスの発車までは2時間以上の待ち合わせ時間があるのでしばし、帯広駅の中をうろうろしてからバスターミナルに向かった。
 午後5時ちょうど、さきもりの乗った糠平温泉までのバスは夕闇に包まれた帯広の街を出発した。

さきもりの旅日記 糠平温泉編(1) 2007年01月18日 23時01分27秒
「どこかに旅行したい!」
 年末年始はどちらかというとヒマになるさきもりの職場、管理職以外は暢気なもので届を出して自由に休める。
冬が好きなさきもりは、どこかにお出かけしたいと思った。
 むろん、積雪寒冷の北海道のことだから目的地も限られるのだが、せっかくの休暇だもの、家でじっとしているのは嫌だった。
 色々と調べてみた。
 条件は汽車やバスでの移動がスムーズにできること。冬に長距離を自家用車で移動する気力も体力もさきもりにはない。
 先ず候補に挙がったのは道北の豊富温泉。
 何でもその昔、地質学者の「石油がわき出るかもしれない」というご託宣を信じた人たちが掘削したところ、石油の代わりに温泉がわき出たのだそうだ。この温泉は皮膚病に効能顕著だそうでさきもりには魅力だったが、いかんせん、移動時間がかかりすぎるのと冬場はこれといって遊べるところもなさそうなので、今回はバス。
 続いては、オホーツク海側の江差町。
冬のオホーツク海を眺めながら温泉で暖まろうと思ったが、今年は紋別で流氷ガリンコ号に乗るつもりなのでこれも却下。
 結局、今年の冬の旅行第1段は糠平温泉を目指すことになった。
 ある日、休暇を取ったさきもりは、糠平温泉を目指して快速列車に乗った。
 さきもりの乗った快速列車は雪原の中をひた走った。
 よく晴れた日だ。今年の冬は暖冬だと気象台が言うが、確かに真冬にしては暖かい。
 夏なら緑波打つ牧草畑も、冬の今は白く大きな布をかぶせられたように見える。
 釧路網走間をつなぐ釧網線ではあるが、平行して走る国道が整備されたおかげで、乗客は漸減傾向にあるという。確かに、見たところ、1両編成の車内には定員の3分の2くらいの乗客しか乗っていなかった。
 キハ54系。
 旧国鉄末期に経営基盤の弱い三島会社に投入された形式。車体は軽くて丈夫なステンレス製とし、エンジンは215馬力のものを2台積むという、正に軽量小型大馬力といった趣の車両だ。反面、防音装備などは最低限しか積んでいない様子で、エンジンの騒音や震動がはっきりと伝わってくる。 
本州出身の同僚は、北海道に来て、駅と駅との間の長さに驚いたと言っていたが、言われてみると、確かに普通列車で結構な距離を汽車は止まらずに走る。
座席に座ったさきもりは、一人、車窓に流れる景色を眺めていた。
 振り向くと、そこにあるのは、雪を被った藻琴山。
 よく晴れた空の青の下に山肌を覆う雪の白が映える。
 旅の相手がいるなら話に興じるのも良いだろう、疲れているなら眠るのも構わない、だが、一人旅なら、この景色を眺めない法は無い。こんな時に携帯電話とにらめっこするというのは愚かだとさきもりは思う。
 汽車は釧路湿原にさしかかる。
 線路脇にいた数頭の鹿の群れがこちらを眺めている。
 なんだか汽車が珍しくて仕方が無いようだ。見慣れた光景だろうに思うと少し可笑しい。
 群れの中に数頭の体の小さい鹿がいた。たぶん、子鹿なのだろう。鹿は毎年、夏頃に出産すると聞いたことがある。たぶん、あの子鹿は去年の夏に生まれたのではないか。あの小さい体でこの厳しい寒さを乗り越え無ければならない。それができなければ野に骸を晒すことになる。文字通りの二者択一。彼らの世界の掟に優しさはあるのだろうか。
 やがて、さきもりの乗った汽車は釧路駅に滑り込んだ。
 乗客たちがぞろぞけと降りて改札口に向かう。そして、さきもりは向かいのホームに停車した特急「すーぱーおおぞら」を目指して汽車を降りた。(了)


「そうや」は帰る 2006年09月25日 21時09分12秒
第3弾です
あの船長も良いところあるよな、飲酒許す、だもんな。ベタ凪のお陰だな。
 それにしても今回のパトロールは時化が続いて厳しかったなー、この「そうや」がきしんだんだからなー、砕氷巡視船なんだよ、この船は。やっぱり、冬の北洋パトロールは危険と隣り合わせだな、今度ばかりは思い知ったよ。
 母さん、父さんが死んだのも、冬だったね。
 吹雪の夜でさ、根室本線と釧網線が朝から全面運休ってテレビで放送してたものな。
 びっくりしたよね、二人でテレビ見ていたらアノラック着た来た漁業無線局の人が飛び込んできて
 「父さんの船の無線が途絶えた」
 だもんな。
 あの時、母さん、泣き出してさ、それでも二人して会社に行ったっけね。結局、船は沈んで乗組員は全滅だったね。前の日に、漁を終えて釧路に帰るって無線で知らせてきていたのにね。あと一日帰港が早ければ、父さんも死なずにすんだんだろうにね。
 皮肉なものだね、そんな海難遺児のこの俺が海上保安学校を卒業して海上保安官だものね。
 母さん、俺、やっぱり、海が好きなんだよ。
 俺、冬にさ、二人ともアノラック着てさ、父さんに肩車されて見た、冬の夕焼けの釧路の海がさ、俺、忘れられないんだ。
 父さん、俺に漁師になれとは一言も言わなかった。むしろ、勉強して陸(おか)の勤め人になれって言ってた。何でなのかな、もしかしたら海の暮らしが嫌だったのかな。その息子の俺は結局、船乗りだもんな、父さん、どう思っているのかな。
 俺が初めてのパトロールから帰ってきたとき、母さん、保安庁桟橋まで迎えに来てくれたっけね、霧の濃い朝だったね、母さん、赤いジャンバー1枚で震えながら岸壁で待っていてくれたっけね、あの時は、先輩たちにからかわれて参ったよ。
 俺が船から下りて作業服のまま母さんの前で敬礼したら、母さん、それ見て泣き出したっけ。あの時、母さん、父さんのこと、思い出したんだろう? 
 こんなシバレル夜にはウィスキーのお湯わりに限るね。体の芯から温まるよ。父さんが生きてた頃によく言ってたっけ。俺、この年になって父さんの言ってたことの意味が分かるようになったよ。
 母さん、明日、0600時(マルロクマルマルジ)、私の乗り組んでいる釧路海上保安部巡視船「そうや」は釧路港に帰投します。もう迎えに来てくれなくて良いよ、朝のシバレは辛いよ。
 天国の父さん、あなたの息子は、立派な船乗りになって見せます。僕と母さんのことを見守っていてください。
 深く大きな悲しみさえも糧にして成長できる、人はそんな逞しい生き物なのかも知れません。そんな貴方を暖めることが出来たら、それが、私たち***ウイスキーの願いです。

おめでとうの夜に 2006年06月09日 20時09分39秒
調子に乗って、第2弾です。
 
 お前が10歳の時だったな、母さんが病気で天国に行ってしまったのは。
 俺にしがみついて泣いたお前の頭をただ、なでることしかできなかった。
 母さんから聞いていたんだな、俺が昇進試験に受かっていたことを、だから、葬式が終わって親戚たちが帰った後に言ったんだよな、僕に構わず偉くなってって。だけど俺は昇進を断った。あれ以来、俺は巡査部長のままさ。
 ごめんな、俺な、お前の日記を盗み読みしたことがあってな、悪気があってのことじゃないんだ、お前がサッカー少年団の練習にでかけた後に、お前の部屋を掃除するために入ったら、机の上に日記帳がページを開いたままおいてあってな、それでつい見てしまったんだ。
 「お父さんが僕のために小進を断ってくれた。うれしかった」
 俺な、嬉しくて泣いたよ、あの時は。だけどな、本当いうとな、俺、昇進して大丈夫かどうか迷っていたんだ、だから断ったんだ。機動隊にはあくの強い奴が多くて、な。それをお前は自分のためだと言ってくれた。俺は息子に恵まれた、つくづく、そう思うよ。
 俺、やっぱり駄目な父親だよ、お前がどんどん遠くに行くような気がして、寂しくて仕方がないよ。今度はお前が海外に赴任だものな、一応、おめでとうって言ったけど、本心を言うと外国になんか行って欲しくないよ、やっぱり近くにいて欲しい。でも、先に逝く俺が、お前の将来を縛れる訳ないもんな。
 こんな俺の息子のお前が、大使館員として赴任だものな。
 向こうに行っても体に気をつけて頑張るんだぞ、大丈夫、お前ならできるよ。
 今度、帰ってきたら二人で写真館で制服姿の写真を撮って貰おうよ、お前の警視の階級章がバッチリ写った写真を、さ。俺も制服を着て写るよ。俺の階級章は巡査部長だけどな。
 今、お前が送ってくれた◯◯◯ウィスキーを頂いてます。これ、高かったんだろう?味といい香りといい俺がいつも飲んでいる安物とは大違いだよ、しかも東京銀座のデパートで買った酒を飲むなんて、俺も偉くなったよ。
 育った我が子の、離れていく背中を見守りながら、寂しさと喜びをかみしめる。そんなとき、あなたのお側において欲しい◯◯◯ウィスキーです。

計算 2006年05月28日 12時04分05秒
 人は報酬なしに努力するのかなーとさきもりは思う。「努力することに喜びを」或いは「努力させてもらえることに感謝を」などと聖人君子の様なことを言う人もいるけれど「費用対効果」の様にして「努力対報酬」という計算を人間が持ったとしても、それを批判することは出来ないだろう。やはり大きな努力には大きな報酬があってしかるべきと考えるのが人間的なのではあるまいか。
 医師免許を取得するためにどの程度の努力が要求されるのか、さきもりには分からない。ただ、医師になった人を数人は知っていて、やはり彼らは努力家だったと思うから、すくなくともさきもりのようなちゃらんぽらんな人間ではだめなのだろう。
 北海道に住んでいると医療過疎という問題はそれこそ現実の出来事として身に迫る。人煙疎らといった地方に医師の免許をもった人間が集まらないという現実に我々道民は日々、晒されている。むろん、拱手傍観している訳ではなくて、そこそこの解決策はある。一例を挙げると「越冬隊」という言葉がある。南極観測に派遣される技術者や学者のことではない。医療過疎にあえぐ地方の住民が、道路条件の悪化する冬から雪解けが進む春の頃までの期間に、札幌の大病院に入院することをさして言う、半ば嘆きの言葉だ。
 日本人の多くは、そして、我々道民も北海道に住む利点を「美しい大自然の中でのんびり暮らすこと」とする。
 確かに北海道の自然は美しい。さきもりの好みから言うと冬の雪景色は神々しいとさえ思う。だが、その神々しい美の中に住もうとする人は少ない。
 むろん、最近の都会の若者は変わってきている、地方への人の流れが出来つつある、という人もいるだろう。そうなのか、とさきもりも思う。都会で起きている変化について何も知らないさきもりだから反論できない。だが、現実の問題として、地方で医師をはじめとする医療従事者の不足が解消されたという話を寡聞にして聞かないから、その変化とやらも何ほどのものかとも思う。
 あの温暖な気候と整備された都市機能、そして、充実した公共交通機関。どれも魅力的だ。やはり札幌の暮らしやすさは道内他都市との比較でも群を抜いている。大学生だった頃のさきもりも卒業後はこの街の周辺に住みたいと思ったものだ。もし道警が人事異動を希望制にしたら、道警1万人のうち7000人くらいは札幌に集まってしまうと言われ、道教委が毎年の定期異動の時期になると札幌周辺部に行きたい教員が多くて困るという話も、要は札幌という街、そして都会の魅力を語っている。
 札幌に限らず、都会は魅力的だ。そして、地方は魅力がない。これが今の日本人のおおかたの合意なのではあるまいか。「魅力」とは作り出すもので、従って、原理的に人工的だとさきもりは思うのだが、地方にはその「人工性」が絶望的なまでに乏しいことは、日々、地方で暮らすさきもりには分かる。
 魅力のない地方暮らしを、他人に抜きん出て努力の日々を送った、現在も送っている医師をはじめとする医療従事者という職業にある人たちが選ぶとはさきもりには思えない。それでは「努力対報酬」という計算式の報酬が余りにも低くなってしまう。昔は違ったという人もいるだろう。だが、昔の人だって、地方の、山間僻地という土地で医師になるということは十分にロマンチシズムの対象となったのではないか。今の世の中でロマンチシズムなどという情緒が存在できるはずもないことは、それこそ自明であろう。
 政府を批判して言うのではないのだが、地方の医師不足を解消することは現在の政府には無理だとさきもりは思う。「個人の幸福」が最大限に追求されるべきとされる今の世の中で医師だけが「滅私奉公をいとうべきではない」とするのは、例えば医師からすると噴飯物だろう。人工性に魅力を感じるなといって見たところで、そもそも医学という究極ともいえる人工性の中で修行し技能を獲得した人たちに、一体、どの程度の説得力があるというのか。
 さきもりは、医療過疎という現実と向かい合いながら今後も地方に住み続けることになるだろう。そして、万が一の時には、潔くこの世を去ろうと思う。意地で言うのではないのだが、人工性に、つまりは魅力に乏しい土地に住んで死んでもさほど不幸なこととは思えないのだ。
 

時の流れは我になく・・・・ 2006年02月02日 00時17分48秒
 某々氏は、文字通り札束で人の頬を打つような真似をして世間の注目を浴びた。この場合、顰蹙するのと賞賛するのとどちらが正しいのかさきもりには分からない。ただ、当の本人は戦闘意欲満々らしくその後もあちこちの会社を買っては傘下におさめていた。
 「守銭奴」「拝金主義者」は外道に近く、これに次ぐのが「成金」か。身内の誰かがこの様に世間から呼ばれていると知ったら眉をひそめてみせるのがこの国の良識ということらしい。かくいうさきもりも、例えば我が妹の婚約者が上の様に世間から呼ばれているとしったら、一応、その婚儀に反対するだろう。
 むろん、さきもりだって金が欲しい。懐具合が豊かである(こんなことが頻繁にあるわけではないのですが)我が身を憂えたことなど無い。だから世間の反応を「偽善」とも思う。思うがしかし、「金に汚い奴」と親しくしたいとも思わない。我ながら矛盾しいるとは思うのだが、「本音と建て前の乖離」と考えると納得できる。要するにさきもりも日本人だと言うことだ。
 「ばくち」という日本語がいつ頃どのようにして現れたのか、さきもりは知らない。ただ、「ばくち打ち」は決して世間から尊敬される存在ではないことぐらいはさきもりも知っている。
 ことほど左様に日本ではなぜか「賭ける」ということを嫌う。
 物の本によると保険も、元々は欧州が大航海時代を迎えた頃に、船の積み荷が無事に目的地に着くかどうかの賭けで出た損失を出来るだけ軽減するために生まれたものだという。
 気象予測技術も航海術も未熟だった当時、海外との貿易は正に「賭け事」だった。つまり、将来の予測不可能性を前提にしなければならなかった。そして、自己に不利益が発生した場合でも、それを出来るだけ限定する術を彼ら欧州人は開発した。それが今日いうところの「海上保険」なのだそうだ。因みに、大航海時代のイギリスで、船に積んだ貨物の荷主と、その貨物の保険引受人が取引の場所として利用していたのが「ロイズ」という居酒屋なのだそうだ。
 日本では保険が成り立たない、という人がいる。「保険」という金融商品は存在するが、その実態は「貯蓄」に限りなく近い。つまり、「保険」を根底で支えている「将来の予測不可能性」という哲学よりも、「将来は予測可能である」という哲学に支配されているのが日本人だという。なるほどさきもりが契約している保険も「掛け捨て(これからさき、何が起こるか分からないから、少しでも補償が大きいものをと思い契約した)」は自動車の任意保険だけで、それ以外は貯蓄(これからさきも安定した社会秩序が維持されるという前提が求められる。例えば猛烈なインフレが襲来した場合、貯蓄は意味をなさない)との併用型の契約になっている。そして、さきもりはこのことを特別なことだと思っていない。
さきもり思うに、日本人は「諸行無常」をいうが、同時に「千古不易」とも思っている。高浜虚子に言う「去年今年貫く棒の如きもの」とは、その「諸行無常」と「千古不易」を同居させる時間観を端的に表したものとも解し得る。
 「ばくち」を日本人はなぜさげすむのか。
 特に経済活動は、幾ばくかの投機的要素(つまりはばくちに似ている)ことを、それこそ世界のどの民族よりも知っているはずの日本人にして、なぜばくちは非難の対象となるのか。
 さきもり思うに、それは、「諸行無常」と「千古不易」という相反する解釈を観念に対する解釈を対置させることで、辛うじて時代が軽佻浮薄に流れたり旧態依然にとどまったりすることを防ぐことが出来るという知恵の表れなのではないか。
 冒頭に引いた某氏は、世間から成金と見なされた。しかも、氏は株式相場という投機がぶつかり合う場所で巨万の富を手に入れた。つまり、世間から「ばくちうち」と見なされる危険を氏は自ら引き受けた。そして、世間は氏を指弾する。
 どちらに理があるのかさきもりには断じかねる。ただ、世間が某氏を批判できるほどに「ご立派」なのだろうか。世間もまた、氏と同様に軽佻浮薄となっているのではないだろうか。

櫓(やぐら)を巡って 2005年10月27日 22時00分08秒
さきもりが以前、住んでいた場所は、明治の終わり頃に岩手県からの開拓団が入植したことにより開かれた土地だとそこの住民に聞かされた。
 今でこそ舗装された国道が整備されているが、明治の頃にそのような道路があるわけもなく、集落の中の道路というと地元民のアイヌの人たちが行き交うに支障ない程度の文字通りの踏み分け道で、腰まである笹原と昼なお暗い原生林を切り開いての生活だったという。その中でも比較的太い道路を挟んで南北に分かれて集落が形成された。
 開拓地と言っても、当然、盆の祭事が行われる。
 さきもりが赴任して数年たった頃、土地の町内会連合会総会の席上で、一悶着持ち上がった。夏の盆踊りの櫓をどこに据えるべきかについてさっぱり意見がまとまらないのだ。
 人口が500人に満たない小さな集落の連合体でのこと、すんなりと決まりそうだと考えるのは余所者の浅はかさで、なんと櫓の位置決め一つで4時間近くも時間が費やされた。 後になって聞かされたことなのだが、その地区では、北側の一帯に開拓団の先発組が入植したにもかかわらず、後発組が入植した南側に鉄道の駅をはじめとして郵便局や保育所などの主立った公共施設(といっても、上の3カ所以外は農協支所ぐらいのものなのだが)が出来てしまい北側の住民が不満を募られていること、北側の住民で古老と言って良い人たちの中に「とにかく、南側は礼儀知らずの恩知らず、櫓の位置決めも本来は、南側から北側に、是非、北側の広場に設置させて欲しいと言ってくるべきなのに、簡単に南側の広場に設置しようとする」と言いふらして歩いている人がいて、そのことが南側の古老たちの耳に入り、論理を超えた、感情的な対立に発展していたのだった。
 結局、その年の盆踊りの櫓は例年通り、南側の集落の広場に設置され、おそらく、現在もそのままなのではないかと思う。
 大学時代を北海道一の都会で過ごし、就職先が北海道でも有数の過疎地帯にあったさきもりからすると、双方の地域社会の相違が際だって見えた。
 大学生の頃には、アパ−トの隣の部屋に人が住んでいるのか否かさえ知らず、1日を通して誰とも会話しない日が有るくらいの、文字通りの「大勢の中での孤独」という状況に暮らし、その暮らしに快適さを見いだしていたさきもりからすると地方の地縁血縁を契機とした強固な共同体の存在には一種、驚嘆の念を抱いた半面、煩わしさも感じた。何せ誰がどんな車種に乗っているのかが筒抜けになっている土地柄なのだ、見かけない自動車が誰かの家の前に停まっているというだけで話題になっていた。余談だが、そんな環境の中で交際していた一組の男女は、周囲の目を欺くためにわざわざ90キロ近くも離れた街でデ−トを重ねていたが、その甲斐もなく、住民の一人とデパ−トで偶然、でっくわすという災難(?)にあっていた。
 地方の過疎化という。若年人口の流出という。問題だとはさきもりも思う。思うがしかし、やむを得ない仕儀とも思う。
 大ざっぱに言って40歳以下の年代の人たちには「人のつながり」が煩わしい。それが自分の選択したものではなく自分以外の何かから押しつけられたものだと拒否反応を示すし、そうすることが当然とされている。そして、地方にはこの感覚を逆なでする慣習が余りにも多い。さきもりはそう思う。
 「向こう三軒両隣」という、かつて都市部にもあった地域共同体が過去のものになって久しいとされる今、地方も、「砂」となった人間たちが集まるように自分たちの慣習を見直すしかないのではないか。つまり、他人に無関心でありつづけ、できるだけ自分を大切にする生き方をする人たちを受け入れると言うことだ。それが幸福なことかどうか、さきもりには分からないけれど。

相撲に寄せて 2005年10月07日 00時17分47秒
 管理人さんのお言葉に甘えて遊ばせて頂きます。
 大相撲が観客の不入りに泣かされているそうな。「巨人 大鵬 卵焼き」と言われた時代は昔日遠く、三者ともありふれた、何ら有り難みのない時代になったということの証しでは無いかと思う。
 相撲という競技は、6世紀前半の古墳からそれをかたどったと思われる埴輪が出土しているというから、その歴史は古いのだろう。地球上の諸民族に、似たような競技や、相撲と似た競技を指し示すと思われる神話があると言うから、案外とこれは日本独自の物ではないのかも知れない。
 物の本を読むと、相撲とは、古くは「すまい」といい神の意思を問う神事として宮中で行われていたという。
 古来の作法に疎いさきもりではあるけれど行司の発する声がどことなく神主のそれに似ていることからしても、相撲が神事であったという説は十分な説得力があるように思われる。
 芸能の世界に「空気を読む」という言い方があるという。故山本七平氏に「空気の研究」という本があるが、これなどを読むと「空気」とは「雰囲気」のことであると分かる。
 芸能という限定された空間だけではなく、世間一般にも「空気」はある。
 現代の「空気」とは何か、と問われてさきもりは明確な言葉で返すだけの知識も学殖もないが、ただ、少なくとも相撲の世界にあるような艱難辛苦の果てに栄光をつかむと言った精神の対極にある何かではないかとは思う。それは一つには、「スポ根」がその実、大部分が「偽善」に過ぎないと言うことが明らかになってしまった現代の不幸を、「不幸」ではなく「自明」として捉える精神ではないかと、さきもりは思う。
 さきもりはスポ根は嫌いで、なおかつ相撲にも取り立てて興味はない。
 相撲の主催団体が、その興行に往時の隆盛を取り戻したいと思うなら、この時代の空気にあった、つまり合理的で透明性の高い興行を心がけることだ。それが嫌なら、古来の神事としての「すまい」に舞い戻るしかない、ただし、それで相撲興行が成り立つかどうかは別論あるだろう。ともかく、いえることは、観客が「相撲の伝統」に敬意を払い、その興行に協力するなどと言うことを考えないことだ。スポ−ツは相撲以外にもあるのだから。

サンプル 2005年09月28日 18時00分29秒
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