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ギョーザの味 2015年04月27日(Mon)
よく行くことが多い和食がメインのファミリーレストランがある。そこで場違いなギョウザを注文する。以前とはだいぶ味が違っていた。値段は変わっていなかったが、個人的な感覚では味はかなり落ちていた。これも円安で輸入の食材などの値上がりによるものだろう。

しかし、その味はなつかしい昔を思い出させてくれた。大学に入った頃、下宿の人たちとよく通った所に新町菜館という中華の店があった。近くにあって深夜までやっていたというのが唯一の「とりえ」という感じの店だった。そこのギョウザは、ニラなどの野菜ばかりで肉がほとんど入っていなかった。その味と同じだったからである。

ギョーザを食べたのはそれが初めてではなかったが、その時以来、ギョーザとはこんなものだと思い込んでしまった。この店ではチャーハンとギョーザ、焼きソバ(エンツォーメン)とギョーザというパターンが大半だった。安くて量が多い。夜遅くまでやっている。近くにあるとなると自然にそちらの方に足が向いてしまう。それだけでよく行ったものである。

下宿人の一人が王将のギョーザを知っていると、ここのは食べられないとよく言っていた。王将は店の位置がちょっと遠かったので、夜にフラフラと出かけていくことができなかった。しかし、ずっと後になって、王将に行くようになったときには、なるほどと思ったものだった。もうこの店には戻れない。ちなみに、インターネットの地図で見ると、この店は今はもうないようである。

学生街の喫茶店 2014年03月23日 18時37分24秒
学生の時は喫茶店は準必需品のようなものだった。京都は盆地特有の気候から、特に夏は蒸し暑い。扇風機はない。クーラーは当然ない。あるのはせいぜい酒屋でもらったウチワぐらいである。部屋には風はほとんど入らない。ジッとしているだけでねっとりした汗がしみ出てくる。そんなところでは本を読もうとか勉強しようというような気は起ってこない。

そんな時はクーラーのある喫茶店に逃避するに限る。 それでクーラーのある喫茶店には、昼はもちろん夜にでも、知人数人と連れだってよく行ったものである。しかし、そうなると今度はそこで本を読んだりすることはほとんどなかった(笑)。ほとんどが涼しい所で雑談ばかりである。

最近見た朝日新聞(2014年3月18日)の夕刊に「京ものがたり」と題して喫茶店の進々堂が紹介されていた。京都のガイドブックなどには定番の喫茶店のようである。この喫茶店には何度か行ったことはあるが、このテーブル群には圧倒される。これが後に人間国宝になった若き日の黒田辰秋の製作によるものだったと初めて知った。

どうも個人的にはあの「長テーブル」と長イスにはなじめなかった。このテーブルとイスは数人でまとまって、ある程度の領域を占拠できるような集団には便利なのであろう。しかし、普通は見ず知らずの他人とスシ詰めの相席になってしまう。駅などの待合室のようで、それがどうにもガマンできなかった。それで自然に行くこともなくなってしまった。わたしには小さなテーブルにイスが4つという平均的な店の方が入りやすかった。

この記事の中で「コーヒー一杯で何時間も過ごす学生」という部分があるが、これはこの店だけに限らずどこの喫茶店でも同じだった。コーヒー代にはテーブルとイスの使用料も入っているから気にする必要はないとよく言われたものである。実際にも、学生街の喫茶店では、店に長く居座って苦情を言われた経験はほとんどなかった。学生とは「もちつもたれつ」という暗黙の了解のようなものがあるようである。

鞍馬の火祭り 2013年10月23日 00時47分19秒
10月22日は昼は時代祭り、夜は鞍馬の火祭りがある。火祭りは4人ほどで連れ立って見に行ったことがある。私と同じ下宿のT君、それにO君とM君だった。鞍馬へは行きは電車だった。夕方までに着けばよいから時間にも余裕があった。今でこそ10月でも真夏日や猛暑日などもあるが、当時はもう秋も真っ盛りで夜ともなるとかなり寒かった。ましてや鞍馬は下界とは気温が数度違うというところである。この祭りを見たのは電車の駅を降りたところで、その前に神社だったかお寺だったかがあって、広場のようになっていたところだった。おそらくこの山峡の地にあっては、祭りのようなものができるスペースはここしかなかったようである(推測)。

見物客もおおぜい集まってきた。チビッ子たちが小さなたいまつを持って走り回っていた。しばらくするとあちこちから「サイレイや、サイリョウ」というかけ声が聞こえてくる。大人たちが火がついている太くて大きなたいまつを数人がかりでかついでくる。そういうたいまつが十数本いやもっとあったのかもしれない。それらが一斉に広場に集合して、燃え盛るたいまつを立てて並べる。勇壮で野性味あふれる祭りだった。その火の熱さが寒い外気にあたっている体には実に気持ちがいい。

そして、祭りが終わる。今度は帰りが大変である。電車は大混雑である。いつ乗れるかもわからない。そこで鞍馬から下宿まで歩いて帰ることにした。鞍馬街道を二軒茶屋まで行って、上賀茂神社の方向に曲がる。上賀茂神社からは烏丸通りを一直線に南下すればよいだけである。とはいえ、地図でみると直線距離にして約6.5kmある。しかし下りとはいえ山道である。曲がり道の多い京都では実質的に歩く距離は10kmぐらいになるだろう。時間にして約3時間とふんで歩きはじめる。

夜もかなり更けている。鞍馬の町で酒屋があったので酒を買う。緑色をした月桂冠の1合ほど入ったキャップエースだった。酒でも飲まないと寒くてどうしようもない。暗い夜道を歌を歌ったり、たわいない話をしながら歩いて帰ってくる。最初はみんな元気だったが、途中から疲れが出てくる。しかも寒い。しかし、この時間では電車はもうない。また電車の路線からは今歩いている道はかなりはずれている。もう歩くしかないのである。

そして、足を棒のようにして下宿に着いたのは深夜の3時頃だった。そこで麻雀でもしようということになった。いかんせん歩き疲れて半チャン終わる前に睡魔が襲ってきて、麻雀はそのままでホームコタツの回りで全員眠りこけてしまう。朝が明けるとO君とM君の2人は彼らの下宿に帰っていった。こういうことがあったから、あの鞍馬の火祭りはさらに印象強く記憶に残っているのである。

京都の踊り 2013年03月05日 20時03分50秒
読売新聞の2013年3月2日付の記事に「学生さんもおこしやす…花街の踊りに学割制度」というのがあった。京都にある5つの花街のうちの上七軒と宮川町で芸舞妓の舞踊公演を対象にするという。関係業界が、客層の高齢化によってこういう「興行」の先細りを心配して、若い人を呼び込みたいということのようである。

春になれば「北野おどり」や「鴨川おどり」や「都おどり」などの宣伝文句をよく見かけた。学生はこういう踊りにはあまり関心はない。見てもそのよさなどもわからない。せいぜい京都にいるからには話のタネに一度ぐらいは見ておこうという程度である。わたしもその程度の動機で一度だけ見たことがある。それが何と言う「おどり」だったのか今ではわからない。

それを見たのは四条通りの一力茶屋の南側にあったベージュ色の建物で祇園甲部歌舞練場だったと思う。これを覚えていたのは、その時にそこで腕時計を置き忘れてしまったからである。学生には腕時計は必須アイテムである。紛失後、下宿の近くの質屋で別の腕時計を買ったものである。今の観覧料は4500円だそうである。物価自体が安かったせいもあるが、当時はそんなにはしなかった。映画料金と同程度ぐらいではなかったかと思う。

その時の踊りは、きれいな着物姿の女の人たちが、優雅に舞っていた。背景の景色が変わるので、その踊りで京都の四季を表わしていたという印象ぐらいしか残っていない。舞台のバックの絵がいかにも子供のお絵かきのような絵だった。正直いって学芸会のお遊戯ではないかと思ったほどである。感銘の度合いからいえば映画などの方がはるかに大きい。少なくとも学生が常時通うような所ではなさそうである。後にも先にも見たのはこれ一度きりである。

ところで、新聞記事の中でお茶屋の女将が「一見(いちげん)の学生客で雰囲気が乱される」というのには違和感を感じてしまう。学生がこれを見たところで、別に「花街」や「芸舞妓」で「遊ぶ」などと意識することはないだろう。映画館へ行く程度の軽い気持ちである。事実さんな気持ちで行ったものである。ましてや料金は学生も一般人も差はなく同じである。おとなしく見ている限り「一見(いちげん)」の客であるかどうかなどはもともと問題にもならないはずである。そんなことを問題にする頑固なほどの「古い意識」のほうにこそもっと根深い問題があるのではないか。

入試の時 2011年03月07日 20時35分39秒
世間を騒がせた入試カンニング事件も一応解決したようである。犯人のオトコは数学が苦手だったようで、全問カンニングしていたようである。思い出せば、その昔、受験のときは時計台の裏にあった大きな講義室のようなところだった。後ろのほうだったので見渡しても千人以上は入れるところに、一つ置きだから500〜600人ぐらいはいただろう。右横は確かメガネをかけた女の子だった。左横は覚えていない。通路だったのかもしれない。

試験監督は結構大勢いたようだが、別に邪魔にもならなかった。そもそも受験番号と顔写真の確認もしていたか疑わしいほどだった。それほど、ゆるい監視だった。もっとも、当時は携帯電話などもなく、カンニングといえばカンニングペーパーを持ち込むか、隣をのぞき見するかだった。隣が自分よりよくできるという保障はないからのぞき見はしなかった。カンニングペーパーも習慣的に作ったことはなかったのでそれもしなかった。

数学は確か6問あった。5問まではほぼ完璧にできたと思う。最後の6問目の途中で時間になった。確か、数学的帰納法の問題だった。せいぜい部分点が若干ついた程度だろう。今でも、受験参考書などでその問題が出ているのを見るとちょっと腹が立つ(笑)。この出来具合がよかったので、妙に合格に自信のようなものを感じたことは確かである。先のカンニングオトコの気持ちも少しは理解できる。

3月とはいえとにかく寒かった。昼食時間になると教室から追い出されるので、教室内で弁当を食べることはできなかった。小雪がちらつき外で食べた。とはいえ全部は食べられなかったことだけは覚えている。弁当を頼んでおいた人が、入試だからというので特に豪華なのを作ってくれていたのもアダになってしまった。午前午後に150〜180分の2科目、3日間の長丁場だったので、最終日が終わったときは、通る通らないはどうでもよく、もう「これで終わった」という解放感だけがあった。

郊外 2010年01月30日 20時39分40秒
京福電車で鞍馬の方へ行く路線に八幡前という駅がある。大学に入って間もない頃、知人がここにいたので訪ねていったことがある。当時は京都の郊外で、町中の学校に通うにはやや遠いところが難点である。この電車線は宝ヶ池という駅が分岐点になって、右は八瀬遊園や比叡山にいく。左は鞍馬へいく。ところが、似たような駅名で三宅八幡という駅がある。これは目的とする八幡前とは方向が反対である。しかし、よく間違って三宅八幡の方へ行ってしまうことがあった。こうなると地理もよく知らない土地をカンだけが頼りで八幡前まで歩いて行ったものである。

八幡前の駅を降りて、駅前の小山を越したところにその学生アパートはあった。そこでたわいのないことを一晩中話していたものである。このあたりは学生が多く、それを対象にした下宿やアパートが多かった。また、学生対象の食堂も多く、もっとも驚いたのはこの点だった。値段も安く量も多かった。こういう点が実にうらやましいと思ったものである。わたしのいた所は京都の町中だったので、学生相手専門というような「つくり」の店がほとんどなかったからである。普通の食堂、喫茶店ばかりだった。

しかし、その知人も翌年には町中に引っ越したところをみると、やはり不便なことの方が多かったのだろう。逆に、騒がしいのは嫌だといって、バスが1時間に1本しかないような大原の方に引っ越した学生もいる。こうなると付近に普通の店さえないような所である。蓼食う虫も好き好きとはこのことかもしれない。

オーバーラップ 2008年09月28日 23時59分23秒
そうこうしているうちに知り合いもできてくると、夜はそういう人たちと一緒に食べに行くことが多くなる。また、一人よりも数人一緒の方が店に入りやすい。一人では入れそうにないような店にも入ることができる。今日はあそこの店に行こうということですぐに「まとまって」しまう。また、どこそこの店はボリュームがあって安かったと聞いたりすると、では一緒に行ってみようかということも多い。学生には味よりも量と値段の方が格段に優先順位が高いからである。

不思議なことに学生の時の思い出は、そういう所や夜中に連れ立って喫茶店へ行ったということと切り離すことができない。気心を知ったものどうしがワイワイガヤガヤしゃべりながら時間を過すことほど愉快で楽しいことはないからである。学生の時の思い出はそういう時間と常にオーバーラップしてしまうのである。

学生食堂のランチ 2008年09月20日 23時14分46秒
学校が始まると昼は圧倒的に大学内にある学生食堂、正確にいえば生活協同組合いわゆる生協が運営する食堂になる。昼の選択肢はここしかない。セルフサービスのパターンである。最初に食券を買い、配膳口でそれと引き換えに受け取る。終わると洗い場に返す。メニューの種類は多かったが中心はランチ形式のものである。魚フライやミニハンバーグなど三品ほどと野菜が入った金属性の皿とライスが入ったプラスチック製の皿の二つでワンセットになっていた。ただし、この食堂も後になって好きなものを単品毎に取って組み合わせる形式も採用されたが、主流はこのランチ形式だった。それでもここは重宝した。値段が安いのが最大の魅力で、学外の食堂や喫茶店の半分以下ぐらいですむからである。当時のランチに味噌汁は付いていなかったので別に5円の食券を買う必要があったが、それでも130〜150円も出せばボリュームたっぷりで十分満腹になったものである。

この食堂にも難点は多々あった。大量生産で作り置きされているためライスと味噌汁以外はすべて冷えていて「できたてのアツアツ」はなかった。ただし、やや温かみのあったライスと味噌汁も標準的な温度と比べるとかなり低かった。また、食器類は全然ダメだった。ギズだらけで変形した金属性の皿、軽いプラスチック製の食器も変形していた。曲がったフォークなどが普通に使われていた。コップに至ってはタバコの灰皿代わりに使われため底面がタバコの火で黒く変形しているものもあった。それでも安さと便利さの方をとってしまうのである。

この食堂は夕方の6時頃までしかやっていないので、昼、夜ともにここで済ますということができない。学生は朝は食べない。昼は10〜15時ぐらいで、夜は20〜24時ぐらいになる。夜は近くの店を探さなければならない。これが単調な学生時代の楽しみのひとつでもあった。田舎と違って、ここでは5分も歩けば色々な種類の食べ物屋や喫茶店が何軒もある。今でこそ「田舎暮らし」ということも多少は注目されてきているが、自動車などなかった当時では田舎から出てきた者にはもう「田舎暮らし」は不便極まりないものにしか思えなかったものである。

ハンバーグランチ 2008年09月15日 22時53分04秒
修学旅行や遊びで行った時ではなく、学生となって初めて入った食堂はどこだったかは今でもよく覚えている。付近にどんな店があるのか知らないし、一緒に行くような知り合いもいない。18〜9で田舎から出てきた者にとっては、昼飯に食堂に入るなどという経験はほとんどないから、もう「入る」こと自体がドキドキしたものである。それで、店の「つくり」があまりにきれいで豪華そうなところはまず敬遠する。こじんまりしていかにも人の良さそうなオジサンがやっていそうな店をあれこれと探し回る。このためだけに結構歩いたと思う。

そうして、やっと堀川今出川の北東角、鶴屋吉信という和菓子屋の斜め向かい、にあった喫茶店ふうの小さな食堂を見つける。「グリル・喫茶」という看板が出ていたが、その店の名前はもう忘れてしまった。店の入り口にあるサンプルをジッと見て、ハンバーグランチに決める。思った通り、中にはテーブルが4つほどあって客が6〜7人程度しか入れないような小さな店である。しかも人の良さそうなオジサンが注文をとりにきて同時に厨房で作るという店だった。

さて、運ばれてきて困ったのはナイフとフォークが付いていたことだった。こういうものを使って食べるという経験はほとんどない。家にはナイフもフォークもあってよく知ってはいたが、それは一種の「飾り」みたいなもので、ふだんの食事に使うことはなかったからである。当時は、ハシに替えてくれということをいう勇気もなかった。テレビで見たことを思いだしながらナイフとフォークで食べたものである。味はよくわからなかったが、若いときに空腹とくれば、たいていのものはうまいものである。その値段がいくらだったかも覚えていない。しかし、それ以後もその店の前はよく通ったが、入ることはなかったから、いくぶんかは高かったのだろうと思われる。

この最初の店の印象は今でも残っているが、2回目に入った店がどこで、何を食べたか、そういうことはもう何も記憶に残っていないのも不思議である。初めてのことは強く印象に残るということかもしれない。

なつかしの京都 2008年09月15日 21時10分12秒
京都は学生の時にしばらく過したなつかしい所である。その当時のことで思い出すことなどをあれこれ書いてみよう。幸い、「このサイトを料金滞納で追放になるまで無期限で書いてよい」ということなので、気楽に書かせてもらおうと思います。