隠れ単細胞

少し前にきた「図書」(岩波書店2011年2月号)をパラパラと見る。最近の「図書」にしては珍しいほどの単眼的発想のエッセーが出ていた。トックビルの「アメリカンデモクラシー」との対比で次のようなことが書かれている。
ブログを単行本化したものがまだしも「読める」のは、あまたのブログの中からそれが「選ばれたもの」だからである。単行本より文庫本(ただし、書き下し文庫は除く)の方が安心して読めるのは、文庫本が単行本の中から「選ばれたもの」だからである、うんぬん。
- 鹿島茂「ふるい落とし原理」(岩波書店「図書」2011年2月号1p) -
議員は「選ばれたもの」だから質が高いという。そんなバカな。議員と本を同レベルで対比するのはもともと無理がある。われわれが議員を選ぶのは、それが生活上の利便や便益をもたらすことになるからである。議員の「知性」や「議員の質」を高めることを目的として投票しているわけではない。

それはさておき、「ブログ」のくだりは、あまりにも発想が素朴で単細胞的である。「本」を出した者はエライ、「本」にならないようなことを書いている者はとるに足らない、という差別意識が丸出しである。

「文庫本」と「単行本」のくだりも、非現実的で片面的な記述である。単行本でも出ていて、しかも文庫本でも出ているような本は、本全体の中でどのぐらいあるのかということが頭の片隅にも出てこななかったのであろうか。そんな本は今ではほとんどない。文庫本で「しか」買えない、単行本で「しか」買えない本がほとんどである。昨今の経済事情や出版事情を考えれば、ここで書かれているような理由によって人は文庫本を買うことはないだろう。

最も問題なのは、誰がどういう視点でそれを選んだかということを度外視して、「選ばれたもの」はなんでもいいとしている点である。この幼稚で単純すぎる発想はどこから出てくるのであろうか。「あまたのブログ」とはどの程度の量なのか。世に存在するブログを全部見たわけではあるまい。その「選ばれたもの」の「選ばれ」方がが明確でないかぎり、それは恣意的に選ばれたものと大差はない。

実際のところは、「選ばれたもの」とはいうものの、その実体は出版社側のわずか数人の人間が営業戦略から、「これは儲かる」と見込んだものを「本」にして売り出し、この世に出てきただけのものである。その程度のことを手放しでありがたがって過大に評価し、ましてそれが本の良質性を保障するなどと考えるのはおめでたいにもほどがあるというべきであろう。いわゆる俗悪図書の氾濫などをみてもそれは明らかである。

- 2011/02/04 -