大衆民主主義という語の使い方

ふと見た新聞の夕刊の経済気象台というコラムに、「昴」というペンネームで「月満つれば欠く」と題した記事が目についた(朝日新聞2005/10/12)。この人のいわんとする趣旨には異論はないが、用語の使い方には多少違和感を覚える点がある。

それは下記の部分である。
NEWS BOX
長引く不況の中で閉塞感を持ち続けていた、いわゆる庶民や、よりどころのない焦燥感に悩んできた若者たちが小泉首相の単純明快なプレゼンテーションに酔い、いままで行ったこともない投票所に押しかけたからである。富裕層重視の米共和党が貧しい深南部にも地盤を広げたような手法で小泉自民党は若い世代に地盤を広げた。日本にもようやく大衆民主主義が芽を出した証拠と見ることもできるが、(以下略)。
- 朝日新聞2005/10/12 -
筆者によれば、選挙に「いままで行ったこともない」庶民や若者たちが、「投票所に押しかけた」ことをもって、「大衆民主主義が芽を出した」としているようである。

この文脈では、大衆民主主義とは、「大衆」が「民主主義」に目覚めたというように、いい意味でとらえられている。しかし、この言葉はそんなおめでたい意味で使われることはない。
大衆は他人の態度や行動に同調しやすく、画一的な行動様式を示す。 政治指導者による大衆操作に動かされやすい。 その結果、現実には現代社会においては大衆を政治的決定から切り離しつつ支配する体制である。 大衆民主主義の行き着く先はナチズムやファシズムである。
- 阿部斉・内田満 編「政治学小辞典」(有斐閣)261p -
要するに、政治学的・社会学的には、大衆民主主義(マスデモクラシー)という言葉は、この筆者のように単なる普通選挙制と同意義であるような楽天的なとらえ方をすることはない

大衆民主主義は「多くの進歩主義者の楽観的期待をうちくだ」いた1)ことは、この言葉を使う者にとっては、もう当然の前提になっているものである。上のコラムのように「楽観的」にとらえることはどうみても不勉強以外のなにものでもない。
NOTES
1) 辻清明「岩波小辞典 政治」(岩波書店)159p。

もっとも、これは「経済気象台」というコラムであるから、筆者が政治学的な用語に無知な、いわゆる専門バカであっても別にとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。しかし、このコーナーに「経済」または「金儲け」以外の領域の内容が出るときは、その多くは不勉強さが目立つことが多い。この場合もまたしかりである。

元々このコラムは財界サイドの人間の立場から書かれているから、興味の対象は金儲けだけである(笑)。それに関係がないような細かいことはどうでもいいということなのかもしれない。とにかく、なにか関係がありそうなネタを原稿のマス目を埋めるために我田引水的にとってきただけにすぎない。そんな質の低いコラムである。

- 2005/10/12 -

参考
これと同じく不勉強さが目立つコラムの例(cb_0039)



とはいうものの、このファイルに飛んでくるのは「大衆民主主義」についてのコピペネタだけを探している頭はカラッポの低能学生ばかりである。インターネットの普及でバカや低能学生がずいぶん暮らしやすい時代になったものである。それに比べれば、上のような不勉強な財界人のほうがまだ少しだけマシかもしれない。
LOG
153.202.161.5 [19/Nov/2023:02:42:43] cb_0040 阿部齊 大衆民主主義
いつの時代も、バカが主役のインターネット、である(笑)。


いい時代

紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである(芥川龍之介)。
インターネットの普及でバカと低能がずいぶん暮らしやすい時代になったものである。


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