鯛(タイ)と鯉(コイ)

近くに釣りが趣味だという人がいる。それで時々釣ってきた魚をもらうことがある。1ヶ月ほど前は鯛だった。今日も鯛を一匹もらう。複雑な料理はできないので煮て食べるだけだが、白身の魚はさすがにうまい。やはり鯛は魚の王様である。

釣りは趣味と実益を兼ねると思っていたが、話を聞くと趣味のレベルをはるかに超えているようである。釣りといえば、ボーッと海岸で釣り糸を垂れているというイメージしかないが、そんな程度では雑魚(ざこ)しか釣れない、「人様にさしあげる」ような魚は釣れないという。

漁場近くの民宿に泊まって翌朝早く貸しボートをチャーターして釣りに臨むという。なるほどね。それでこんな大きな鯛が釣れるわけか。その時間と労力と費用を考えると、魚屋で大きな鯛が数匹買えてしまえそうである(笑)。しかし、そんなことをしないのが釣りを趣味とする人の行動様式のようである。

ところで、鯛は今でこそ高級魚だが、昔は高級魚ではなかったようである。古代、都があった奈良や京都の盆地は海がない。したがって、新鮮な海の魚もなかった。その代わり高級魚とされていたのは淡水の池に多くいた鯉だった。そこでは鯛は雑魚ざこ扱いだった。

鯛が庶民に広まったのは室町時代以後、鯛をかかえた恵比寿さまが出てきた七福神信仰からだという。そして「めでたい」と縁起もかつがれ、高級魚に一直線である。いわば古代から現代に長年月をかけて出世を果たした出世魚である。ああ、ありがたい、ありがたい。そんな話より、とにかくこの鯛で飲む酒はうまい(笑)。

参考文献
石井郁子「食べもの歴史ばなし」(柴田書店)136~137p。

- 2013/02/07 -


鯉はニューフェイス

いろいろ本を見ていると意外なことを発見する。「俎板まないたこい」または「俎板の上の鯉」という語は大昔からあったように思っていたが、そうではないらしい。時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」(岩波書店)561pによると、この言い方は昭和40年代以降に出てきたニューフェイスであるという。

それによると、昔はこれと似たような表現はあったが「鯉」という魚は使われなかった。昔の表現としては、「俎板の上のうお」とか「俎上そじょうの魚」とか「俎板の魚」などであったという。

「魚」とだけいえばアジもイワシもチリメンジャコもフナもすべて入ってしまう。しかし、それではこのことわざの「重さ」と釣り合いがとれない。それで、いつからか(川の)魚の王様と言われる「鯉」に変ってしまったのだろう(推測)。今では何の違和感もなく「鯉」が定着している。言葉は世に連れ、世は言葉に連れ、である。こうなると「俎板の上の鯛(タイ)」も間違いだとも言えなくなってくる。

こんなことを思うと、昨今何となく違和感を感じる使われ方をしている「鳥肌が立つ」「やばい」などという言い方も、いずれその今風(いまふう)の意味が定着していくのかもしれない。
参考
違和感を感じる「やばい」(fz_0188)
鳥肌が立つ(cb_0115)

- 2016/04/13 -


腐っても鯛

気楽に読める「ものしり」系の本をパラパラと見るのはいい時間つぶしになる。増原良彦[編]「和風と工夫」(同文書院)という脚韻を踏んだような本をみていたら、「腐っても鯛」という語にまつわる話が出ていた。鯛という魚は腐りにくいのだそうである。「比較的深いところにすむタイは、常に強い水圧にさらされて」いるので「身がひきしまり肉質の中に水分が少ないので腐りにくい」のだという(同書98p)。

なるほど、それでサバやアジやイワシなどの「雑魚」とは同レベルにならないわけか。それにしては、腐りにくいのに「腐っても」とはなぜか、そこにちょっとひっかかるのである。昔は保冷・冷蔵設備は当然なかった。同じ日の同じ時間にとれた「鯛」とそれらの「雑魚」をそのままで保存しても、他の魚は腐っても鯛は腐っていなかった。それで刺身は無理だとしても煮たり焼いたりして食べることができた。『他の魚は「腐っても鯛」だけは腐っていなかった』、というわけである。先人の知恵、畏(おそ)るべしである。ただし、この部分は私の勝手な想像・創作である(国語の試験ではほぼ0点)。

- 2015/02/09 -