オリンピックやワールドカップの日の丸に熱狂する心象の、ほんの一歩先にはナショナリズムの熱狂があり、それは生活の安定や未来の希望を失った日本人のこころを埋め合わせるものとなる。内政の失敗や行き詰まりを「外国」に目を転じさせることで切り抜けることは、どこの国でも行われている「安易な」政治手法である。しかし、「外国」にも当然にその国なりのナショナリズムがある。そのぶつかり合いは最終的には戦争に行き着く。過去の戦争の歴史をみてみればこれは明白である。
- 高村薫「二分される社会」(岩波書店「図書」2015年2月号37p) -
敗戦に至った戦争責任に中途半端に蓋をせざるを得ず、結果的に歴史を清算できなかった戦後日本の負債でもある。これは目新しい指摘ではなく、過去いくたびも色々なところで指摘されてきたことである。ドイツが今でもナチスの党員や戦犯を、たとえ南米の奥地に潜んでいても見つけ出して逮捕しているのと対照的である1)。これに対して、日本では戦前の政治家や戦犯、それとつながって利権を得ていた経済人(マスコミも含む)、その子孫たちが今の社会を牛耳っている。戦争をしたがるが、戦争の責任はとらない2)。これはそういう人たちが先祖代々受け継いできたDNAなのであろう(笑)。
- 高村薫「二分される社会」(岩波書店「図書」2015年2月号37p) -