普遍性という語の使い方

思想・良心の自由について、現行の憲法は次のようになっている。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
人間が自然にもっているはずの思想・良心について、国家または公権力に対する禁止・命令をするという形になっている。

ところが、自民党改正案(2013年のもの)では次のようになっている。
(思想及び良心の自由)
第十九条 思想及び良心の自由は、保障する。
実質的には両者に大きな差があるとは思えないものの、この書き方では、人間が本来有している(天賦人権)はずの思想・良心のような内心の自由も、国家から与えられたもの、国家を前提にしてはじめて保障され、存在するものであるような印象を受けてしまうのである。この改正案の起草者の背後には、国家が国民に権利を与えてやるという発想があるのだろう。


ところで、この「人権の史的特質」について、次のような指摘がある。
国家以前の権利という人権の把握のしかたは、中世の価値体系の外からこれをつき崩すためのイデオロギーとしての歴史的な機能を営んだもので、今日、普遍性を有するとはいいがたいのである。
- 清水睦「国家と法」(有斐閣大学双書「法学講義」64p) -
そして、人権を国家以前のものとしてとらえることは、「言葉と逆に普遍性を持つとはいいがたい」と断じている。

この理由として次のようなことを述べている。
国家権力を義務づける人権は、国家権力と国家との間の緊張関係を論理的前提とするものであり、国家による自己の義務の承認なくして人権保障はありえないからであり、(以下略)。
- 清水睦「国家と法」(有斐閣大学双書「法学講義」64p) -
しかし、こういう論理は、現在の日本国憲法のような完備した人権規定の存在を前提とした場合にのみあてはまるものである。ごく狭い範囲での限られたケースにのみ通用する論理にすぎない。

この論理は、大日本帝国憲法(明治憲法)のような憲法下でも、このように断定できるのだろうか。また、社会体制の異なる国(たとえば中国など)の憲法下でもこんなことがいえるのだろうか。そんなことはあるまい。この考え方こそ「逆に普遍性を持つとはいいがたい」考え方ではないのか。


上の考え方は「国家による自己の義務の承認」をしないところでは人権はない。そんな人権は無意味なものである。画餅にすきないという。「国家による自己の義務の承認」した範囲でしか人権はないという。要するに、国が認めた範囲でしか人権はないということである。

このことは明治憲法の権利規定に法律の留保が付いていたことを思い出させる。「お上」が「お慈悲」をもって「下々(しもじも)」のために「人権」というものをお認め下さるまでは、この世には「人権」というものはなかったということである。

このことは次のように書かれていることからも明白である。
国際条約としての性格を有し、承認各国に法的拘束力をもつ国際人権規約(1966)の登場は、新たなレベルにおいて人権の普遍性を甦らせたことにもなろう。
- 清水睦「国家と法」(有斐閣大学双書「法学講義」64p) -
この条約を締結(承認)していない国の国民には人権などはない。そういう国では政府が「お慈悲」をもってこの条約に参加するまでは人権などはないということになる。

この論理では、国民の状態は何の変化もないのに、政府がこの条約に参加することを境にして、急に「人権」が生まれてくるということになる。それまでは「思想及び良心の自由」や「内心の自由」はなかったのに、朝起きてみればそれがある。そんなバカなことを書いているのである。

結局、これらの記述からみるとこの人の述べていることは、憲法という文章ができる前には人権はない。憲法に書かれてはじめて人権というものが存在するということになる。

ここまでくると、どうやらこの人の「普遍性」という語の使い方がおかしいということがわかってくる。何らかの文書に書かれた権利ならば国家に対してそれを主張できる。これはごく当然のことである。そのことを称して「普遍性」を持つとしているのである。


混同

ところで、「普遍性」とは、ある範囲のすべてのものに共通し、例外は考えられないことをいう。上に書かれているような、ごく狭い範囲での限られたケースにしか通用しないものは「普遍性がある」とはいわない。

しかし、この人のいう「普遍性」とは、現代では「人権」といわれるものは天賦人権だけではないから、人権を国家以前のものとしてとらえると現代の人権の全体をとらえることはできない。天賦人権だけでは人権すべてに共通したものとして把握することはできない。その意味で「普遍性」はないと言っているようである。

要するに、概念定義として人権を国家以前のものとすることは「普遍性」はないと述べているのである。そして、この考え方の帰結としては、憲法典に人権または権利として書かれているものだけが人権だということになる。

しかし、「人権(そのもの)の普遍性」と「概念(構成)の普遍性」とを混同してはいけない。

「内心の自由」は、人が人として当然持っている権利である。これはその国が条約に参加するか参加しないかということとはまったく関係がない。基本的人権は「人間性から論理必然的に派生する前国家的・前憲法的な性格を有する権利」(宮沢俊義「憲法Ⅱ」(有斐閣)200p)だといわれるが、これこそが普遍性を持つということである。それを「普遍的」な人権というのである。普遍的な人権であるからこそ、それがまた憲法改正権の限界を画するという機能も持ちうることになる。

憲法という文書に書かれた権利のない国、憲法はあっても「内心の自由」「表現の自由」が規定されていない(認められていない)国が世界にはまだまだたくさんある。そういうところではやはり天賦人権(これは普遍的な権利だ)ということから主張していかなければ、いつまでたっても「内心の自由」「表現の自由」のない状態から抜け出ることができないことになってしまうだろう。
各個人が普遍的な「自然権」をもつとする道徳的原理を基礎にすえながら、現実の国家状況の中で、そのような権利の具体化のあり方を探り続けることがますます重要な課題になっているといえよう。
- 佐藤幸治「憲法 [新版]」(青林書院)13p -
これなどは「人権の普遍性」という使い方の例である。

- 2013/07/18 -