諦念

高村薫「小数派の独り言」(岩波書店「図書」2016年9月号47p)に次のようなフレーズがある。私の思っていることと似た点が少なからずあるという印象を受けた。
選挙前、消費増税の公約を撤回して、「新しい判断」と言ってのけた首相の朝令暮改について、増税延期は有り難いのだから言葉などはどうでもいいという(以下略)。
憲法前文の主語が国民から国家に変っても大したことではない。それよりとにかく景気対策を!
この作家の目に映った今の日本人の心象であろう。今さらながら、政治意識が低く、ゼニカネのことにしか関心がない。朝三暮四のサル並みの愚国民に対する嘆きである。

これは私が常に皮肉で書いている「日本人には選挙権よりバナナ3本ほど与えているほうが似合っている」、「日本人のほとんど全部は憲法とは何かを知らない(fz_0067)」というのと「思い」は同じである。

この先起きるであろうことへの想像力を決定的に欠いてはいるが、(以下略)。
「想像力がない」というのは「考える力がない」「こいつはバカだ」というのと同じ意味である。それをやんわり言い換えただけである。これは文筆業者の常用的言い換え用語(cb_0095)である。正面切ってバカだというと商売に響くからこれは致し方ないだろう。

これは私が常に日本人を端的に単純に「愚民」「愚国民」と書いているのと「思い」は同じである。ただし、これは私だけではなく歴史家の色川大吉さんも今の多くの日本人を称して「愚衆」という語を使っている(→fz_0073,cb_0095)。

筆者にはいま、自身の視線が少しずつ同時代を離れてゆきそうな予感もある。
こういう愚国民について考えたりするのはもう無意味だという諦念がありありとうかがえる。これは多くの文化人と称する種族に共通に見られる現象であろう(bk2_0118)。

私はもうだいぶ前から「愚民の国のニュース」には関心がなくなっている(持たないようにしている)。これと「思い」は同じである。今のサル並みの日本人についてあれこれ論じるのは無駄であろう(という感じが強い)。

しかし、、かつて大逆事件(明治末期のアナーキストや社会主義者の弾圧事件)の判決が出たときに石川啄木が「日本はだめだ」と嘆いたことを思い出す。ムダなようでも「あるべき」姿1)を語る者がいなければ愚民大衆の意識レベルは太ったブタまたは朝三暮四のサルのままで進歩しない。
NOTES
1) この点は人魚亭歳時記2016/07/31の「「あるべき」と「現実」」のお話を前提にしている。これは今は「いいダシに使えるヒロシマ」に移動。
小説家は人間への眼差しを捨てることもできない(以下略)。
さすが、文化人。「あるべき」姿を語ろうという気がまったく消えたわけではないようである。フーテンの寅さん流にいえば「見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」である(ただし筆者は女だからフンドシは不適切/笑)。この点はわれわれも頂門の一針とすべきかもしれない。せいぜい言いたいことは言っておこう。

- 2016/09/01 -