表現の不自由

コラージュ(collage)とは、広辞苑によれば、「(貼り合せの意) 近代絵画の技法の一。画面に紙・印刷物・写真などの切抜きを貼りつけ、一部に加筆などして構成する。広告・ポスターなどにも広く応用。ブラック・ピカソらが創始。貼付け絵。」という芸術技法による作品を指す。

2019年の夏に国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったという事件があった。その中でも特に、天皇コラージュの作者の映像作品や元従軍慰安婦を題材とする「平和の少女像」などの展示が、河村たかし名古屋市長の抗議や右翼からのテロ予告の電話(いわゆる「電凸(突)」)やガソリンをばらまくという脅迫などによって中止に追い込まれたものである。

表現の自由に対する有形無形の圧力はいつの時代にもあった。たまたま部屋の「がれき」の下に溜まっていた古雑誌をパラパラ見ていたら、「あいちトリエンナーレ」でもあった天皇コラージュに対する「圧力」と似たような事件が目にとまった。ただ、当時は言論(表現)レベルにとどまって、ガソリンなどを持ち出し放火殺人をにおわせるような粗暴犯的な脅迫はなかった点が異なるぐらいである。事件の構図はまったく同じである。

それは富山県立近代美術館が、昭和天皇の肖像と女性のヌードなどを組み合わせたコラージュにした作品と作品等を収録した図録を、一部の県会議員やそれを支持する者たちの批判によって、それを非公開、非売品とし、さらに作品を売却、図録を焼却したという事件であった。
当該作品の富山県立近代美術館における展覧会での展示は、選定委員会において「社会的な現象を一定のパターンにとらわれることなく、作者の個性が高く表現された作品である」と評価されて、購入したことによる(一九八六年三月一九日)。ところが同年六月四日県議会において議員が、県側に対し、作品を見て不快感を覚えたとして、作品の展覧会での選考意図及び経過、県民の反響などについて質問した。このことが新聞で報道されてから、作品と図録の廃棄を求める団体などの「非公開派」が再三にわたり、非公開を求める活動をした。
- 植野妙実子「コラージュ -天皇肖像コラージュ事件をめぐって-」(有斐閣「法学教室」1999年4月号2p) -
「非公開派」は次のようなことを主張していたという。
  1. 戦後天皇に対する不敬罪がなくなったのをいいことに、天皇の写真を悪用した作品を展示したことは問題である。
  2. 天皇は日本国の象徴であり、これを侮辱したのは許せない。
  3. 県立美術館という公の組織施設が不敬行為の片棒を担ぐという不明非常識さが問題である。
これらの理由らしきものを見ていると、戦前のような天皇個人に親しみ(またはあこがれ)を感じる者がまだまだ多いということである。「非公開派」の中には「図録の中の本件作品の掲載頁を破って逮捕」された者もいるという。その感情的な興奮は異常というほかはない。今でも戦前の教育勅語や修身・道徳などを信奉している者が多いことを思うと、日本人の精神の底流にヘドロのように溜まっている旧い天皇制の残滓の強さを実感するところである。ちなみに、天皇が象徴であることからは何の法的効果も導き出せないというのが憲法学の通説である(佐藤幸治「憲法 [新版]」(青林書院)219pなど)。

ところで、こういう「電凸(突)」や直接行動をくり返す人が、社会的弱者といわれる人たちや社会的に理不尽な扱いを受けている人たちに共感と義憤を感じて、これは「問題がある」「許せない」「不明非常識」だと指弾して抗議行動に出ることはほとんどない。しかし、天皇に対してだけはほんのわずかなことでも敏感に反応する。国民の大半が象徴天皇制のもとで大きくなったことを考えると、社会的には国民の生活とほとんど無関係で、しかも政治的にはまったく無能力のはずの天皇に、かくも強い偏執狂的な「思い込み」や「思い入れ」はいかなる過程を経て形成されたものか、興味深いところである。
我々日本人にとって明治天皇のイメージは、映画『明治天皇と日露大戦争』の嵐寛寿郎のごとく、近代国家を率いる大元帥の軍装をした姿である。
- 寺島実郎「脳力のレッスン」(岩波書店「世界」2020年6月号247p) -
この映画は私もYouTubeで見たことがある。たぶん昭和天皇もこれと似たようなものであろう。本(マンガを含む)なり映像なりで、どこかで実際とは異なる天皇を見た。戦前の皇民教育を受けた者ならいざ知らず、今ではこういう映像などでしか「接する」ことはないはずである。それもたぶんかなり美化されたものであることは容易に想像がつく。それに万世一系や天孫降臨や神の子孫だという戦前的思考の残滓の「尾ひれ」がついてイメージだけが独走することになる。
釈然としないのは、一度は高い評価を受け入れ作者から購入して展示までしていたのに、どうしてその決定を撤回したのかという点である。「不敬」という批判に屈伏したのであるなら、天皇を扱う作品の表現の自由は存在しないことになり、民主主義、法治主義の根本も疑われる。(中略)。自由な表現が存在しないかぎり、真の自由は我々の手にないということを知らしめる事件であった。
- 植野妙実子「コラージュ -天皇肖像コラージュ事件をめぐって-」(有斐閣「法学教室」1999年4月号3p) -
コラージュという芸術作品の中に、その素材として天皇の画像が組み込まれて使われたとしても、問題になるのはそのプライバシー権や肖像権の侵害だけであるが、使われているのはどこでも見られる天皇の写真である。裁判ではどちらもそれを侵害するものではないとされている(富山地裁平成10.12.16判決)。内閣総理大臣も天皇も制度上は同じ機関(公人)であり、民主主義社会では、それに対する批判をはじめとする表現の自由は当然保障されるはずである。すなわち、民主主義社会では、批判の対象とならない公人は存在しえず、天皇も例外ではない。天皇だけを特別に扱う理由は見いだせない(天皇は目立った活動はしないから批判の余地は少ないが)。こういう事件に見られるような過敏な反応は理解しがたいところがある。

こういうものを撤去した役所の対応について、公務員は問題や事件が起こることを嫌がり、それに巻き込まれることを避けようとする傾向が強い。一度決定したことを簡単に撤回したことも「なるほど」とうなづけるところである。彼等には表現の自由の問題などは頭の片隅にも存在しなかったであろう。ただただ「厄介なもの」は遠ざけるという役人の本能的な行動様式でありDNAでもある。それが出てきただけである。これは「あいちトリエンナーレ」でも「逃げ腰」だけが目についたこととも共通しているようである。

また、少し前に「ひろしまトリエンナーレ」中止」という記事があった(毎日新聞2020/05/07)。これは実質的な「検閲」が行なわれることを懸念して、実行委のディレクターが辞退し、多くの作者が出展を取り下げたようである。記事には一万円札の福沢諭吉のコラージュが出ていた。そして昨今の「自粛警察」よろしく同調圧力を強要する日本人の性格から見て、これにも「どこかのスジ」からクレームが出るのだろう。表現の不自由な時代であることよ。

- 2020/05/08 -