当該作品の富山県立近代美術館における展覧会での展示は、選定委員会において「社会的な現象を一定のパターンにとらわれることなく、作者の個性が高く表現された作品である」と評価されて、購入したことによる(一九八六年三月一九日)。ところが同年六月四日県議会において議員が、県側に対し、作品を見て不快感を覚えたとして、作品の展覧会での選考意図及び経過、県民の反響などについて質問した。このことが新聞で報道されてから、作品と図録の廃棄を求める団体などの「非公開派」が再三にわたり、非公開を求める活動をした。「非公開派」は次のようなことを主張していたという。
- 植野妙実子「コラージュ -天皇肖像コラージュ事件をめぐって-」(有斐閣「法学教室」1999年4月号2p) -
我々日本人にとって明治天皇のイメージは、映画『明治天皇と日露大戦争』の嵐寛寿郎のごとく、近代国家を率いる大元帥の軍装をした姿である。この映画は私もYouTubeで見たことがある。たぶん昭和天皇もこれと似たようなものであろう。本(マンガを含む)なり映像なりで、どこかで実際とは異なる天皇を見た。戦前の皇民教育を受けた者ならいざ知らず、今ではこういう映像などでしか「接する」ことはないはずである。それもたぶんかなり美化されたものであることは容易に想像がつく。それに万世一系や天孫降臨や神の子孫だという戦前的思考の残滓の「尾ひれ」がついてイメージだけが独走することになる。
- 寺島実郎「脳力のレッスン」(岩波書店「世界」2020年6月号247p) -
釈然としないのは、一度は高い評価を受け入れ作者から購入して展示までしていたのに、どうしてその決定を撤回したのかという点である。「不敬」という批判に屈伏したのであるなら、天皇を扱う作品の表現の自由は存在しないことになり、民主主義、法治主義の根本も疑われる。(中略)。自由な表現が存在しないかぎり、真の自由は我々の手にないということを知らしめる事件であった。コラージュという芸術作品の中に、その素材として天皇の画像が組み込まれて使われたとしても、問題になるのはそのプライバシー権や肖像権の侵害だけであるが、使われているのはどこでも見られる天皇の写真である。裁判ではどちらもそれを侵害するものではないとされている(富山地裁平成10.12.16判決)。内閣総理大臣も天皇も制度上は同じ機関(公人)であり、民主主義社会では、それに対する批判をはじめとする表現の自由は当然保障されるはずである。すなわち、民主主義社会では、批判の対象とならない公人は存在しえず、天皇も例外ではない。天皇だけを特別に扱う理由は見いだせない(天皇は目立った活動はしないから批判の余地は少ないが)。こういう事件に見られるような過敏な反応は理解しがたいところがある。
- 植野妙実子「コラージュ -天皇肖像コラージュ事件をめぐって-」(有斐閣「法学教室」1999年4月号3p) -