子ども憲法論

ところで、先の22歳の投書子は「押しつけ憲法論」の後に次のようなことを書いている。いわゆる「軍事戸締り論」の主張である。
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私は国家に戦力は不可欠だと思う。「戦力の保持」を明記してほしい。世界から紛争はなくなっておらず、いつ日本が戦争に巻き込まれるか分からないからだ
- 朝日新聞2015/05/02(投書) -
こういう場合への対応ならば今の自衛隊で十分のはずである。それを「軍隊」「戦力」として認めてやれという主張なのかもしれない。

また、憲法記念日にちなんで俳優の東ちづるさんが憲法を「生きるための基本書」と題して次のようなことを書いている。
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日本国憲法について、もちろん、学校の授業では教わりました。(中略)。憲法の話をすると、「じゃあ、どこどこが攻めてきたらどうなるの?」なんて話になってしまう。
- 朝日新聞2015/05/03 -
こういうものを読むと、子どもたちが憲法というものを身近に感じるのは戦争というものを通してであることがわかってくる。このパターンの「言い方」を、ここでは「子ども憲法論」としておこう。

「子ども憲法論」の対象になるのは、戦争、軍備・軍隊にからんだものに限られる。それ以外の自由権や社会権など憲法にからんだ問題は出てこない。子ども(や二十歳前後の若者)の知能程度や生活環境を考えればそれは当然のことでもある。とはいうものの、それは子供の頃に遊んだ「戦争ごっこ」程度のものではあるが。

しかし、そこで持ち出される例は極めて荒唐無稽で非現実的なものばかりである。いわば「戦争ごっこ」の延長にあるようなものである。そこでは子どもたちには非常にわかりやすい例が取り上げられる。すなわち、他の状況は一切遮断して、孤立的で単純化された事例が好んで使われる。戦争は子どもの「戦争ごっこ遊び」のように、ある日急に突然起こるものではない。それに至るまでの長い期間がある。それを無視して、いわゆる素朴な「軍事戸締り論」または「子どものケンカ論」が通用する例が意図的に取り上げられるのである。

そこでは原始時代の狩猟生活をしているかのような社会状況、他とは隔絶した状況で暮らす人間状況が設定される。たとえば、上にも出てきたような「武器を持たないときに、敵が攻めてきたらどうする」というのが定番の事例である。そこでは決して現代の複雑な国際情勢に即応した現実的な状況が考慮されて設定されることはない。

そういう単純な図式は子どもたちには実にわかりやすい。こういう極度に単純化された例を持ち出して「どういう結論」を導こうとしているかは明白である。素朴で単純なものだが、それだけにかえって子どもには受け入れられやすい考えである。

そして、なるほど武器(軍隊)が必要だ、持たないといけない、と思い込ませるような状況が最初に提示される。そして実際にもそのようにストレートに思い込んでしまう。一面的な見方や感情に訴える意見は分かりやすい。そのため広まりやすい。多くの人は、大人になる過程でそれを再検討したりすることもなく、その時に思い込んだままで大きくなる。大人になってもそれが染みついたままである。

しかし、そんな架空事例でも疑問は多々わいてくるはずである。「武器」とはどんな範囲のものか。「敵」とはどんなものを指すのか。「攻めてきた」というがそれはどんな態様のものを指しているのか。しかし、そんなことは考慮されない。もう議論の対象にもならない。

こういう例を持ち出す者は、原始時代的な状況を設定しておきながら、現在の状況とオーバーラップさせるのが目的である。たとえば、「武器」は棍棒ではなく鉄砲であり戦車である。「敵」は裸族ではなく中国やロシアの兵隊である。「攻めてきた」とは数人が歩いてノソノソとやってくるのではなく近代的な船や飛行機でやってくる。「武器を持たないとき」が現行憲法の第九条になってしまう。

こうなってくると、最初に設定した「原始時代的状況」はどこかへ消え去って、中国やロシアの兵隊が最新鋭の船や飛行機で鉄砲をもってやってきたら困るという意識だけが植えつけられることになる。憲法の第九条は変えるべきだということに導かれる。保守の論調の常套手段である、いわゆる論理のスリカエである。

このようにして、素朴な「戦争ごっこ」を端緒にして出てきた「子ども憲法論」の行き着く先は、必然的に「軍備・軍隊が必要だ」「軍隊を持つべきだ」「軍隊を持てばすべて解決する」という意識だけが刷り込まれる。そして、軍備・戦力を持つ改正なら賛成だという意識が作られる。

その「軍隊」がどういう効果を及ぼすのかにはまったく無関心である。また、憲法の他の条項がどのように改正されようともそんなものは見もしないのである。ここに目を付けたのが愚民党、いや失礼、自民党の憲法改正案である。時代が逆行したかのような国家主義的傾向が強い憲法を押し戴き、国民の上に国家や天皇を置き、国民の人権や権利は制限し、国家権力はフリーハンドに置こうとしていることは明白である。


集団的自衛権と子ども憲法論

集団的自衛権を認める方向に転換した時の首相の説明について、まさに「子ども憲法論」がそのまま出ている。少しでも思考能力があればこの論法のインチキは簡単にわかることである。これに対しては次のようなコメントがある。
確かにそれだけを見て、弱い日本人が襲われようとしているときに、助けなくていいのかと問われれば、助けないといけないと誰でも思うだろう。けれども、他の事例もそうだが、安倍総理が挙げる具体例の特徴は、襲われる部分を切り出してくるだけで、それがどういう状況で、どのような経緯で、そういう事態になっていくのかという、前提条件が省かれていることだ。結局戦争が起きるにはそれなりに理由があるわけで、どうしてそういうことが起きるのか、日本政府の対応方針は何か、その中で米軍艦で輸送することに優先順位があるのか、襲われる危険があってもあえて輸送するのか、といったことを考えてみないと、その事例自体の有効性は立証できないはずだ。
- 柳澤協二「現実を無視した危険な火遊び」(奥平康弘 山口二郎編「集団的自衛権の何が問題か 解釈改憲批判」(岩波書店)51~52p) -
要するに、ある一面だけを切り出してきて、「さあどうだ」という印象操作をするのである。これは保守の論調の常套手段でもある。たとえば高市早苗議員のような無責任政治業者(2013-05-19)など、いろいろな場面で使われる。


オトナたちの「子ども憲法論」

この「子ども憲法論」はいろいろな所で出てくる。単純で素朴なだけに、子どもだけでなく大人の間にも頻出する。

東京新聞(2015/04/14)に日本の防衛産業に従事する人の話で、「「武器つくっとる。でもそれで生活が成り立っている」 平和と軍需と長崎の70年」という新聞記事がある。
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他人が家に勝手に入ろうとしたときに、どうぞどうぞと入れるか、という話。ちゃんと鍵は閉めなくてはいけない。
- 東京新聞2015/04/14 -
こういう例を出して、各自が拳銃やピストルなどの武器をもつべきだという主張に結び付くならともかく、この例からすぐに「他人」が外国で、「鍵」が武器、戦力に結び付いてしまうのである。ここでも決して現代の複雑な国際情勢に即応した現実的な状況が設定され検討されることはないのである。

この単純で素朴な「軍事戸締り論」は政府の基本的な考えである。実際にも色々な所でさまざまな「鍵」が使われている。たとえば、石垣島にミサイル部隊を配備したり、宮古の離島奪還訓練をしたり、その事例には事欠かない。

しかし、その「鍵」の効果・効用についてはまったく検討されないのである。ただ、「それさえあれば万全だ」という強固な思い込みで満たされているのである。これは「子ども憲法論」そのものの発想なのである。


「脱・子ども憲法論」の例

この点について、現代の複雑な国際情勢に即応した現実的な状況を前提に論じたものとして、琉球新報(2015年5月14日)が次のようなことを書いている。

石垣島へのミサイル部隊配備
石垣島にミサイル部隊を配備することについて。
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ミサイルの撃墜が実際の局面で本当に可能なのか。実戦では、迎撃実験でのように相手の発射を事前に把握し、あらかじめ弾着場所付近に待機するのは難しい
推進派は技術向上で命中率が格段に高まったと強調する。しかし弾道の高さや角度によっては今も技術的に極めて困難なはずである。
しかも本気で狙うなら発射が1、2発で済むはずがない。ひとたびミサイル発射の局面に至れば、攻撃対象は、幸運にも数発は避けられたとしても、いずれ火の海になるのは避けられないのだ。だとすれば配備は軍産複合体の利益のためとしか思えない。
保守政権が仮想敵国とする中国にしても、その広大な国土の各所に配備された多数のミサイルが日本に照準を合わせている。いざ、コトが起こった場合、それらがいっせいに飛んできた場合にミサイル防衛システムでその全部を迎撃することは難しい(ほとんど不可能である)。これはロシアにおいても事情は同じである。

ましてや、そういう量的攻撃に対して、一発必中ではない迎撃システムなどはオモチャ、せいぜい、「持てば安心だ」という「お守り」程度のものでしかない。しかも莫大な費用のかかるオモチャだからカネをドブに捨てるのに等しいものである。「持って」その効果を検証することなどは考慮されないのである。

離島奪還訓練
宮古の離島奪還訓練について。
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離島を攻める場合、敵は拠点地として周りの海のどこでも任意に選ぶことができる。離島からすれば敵は360度どの方向か分からず、距離も近場から遠くまでどこでもあり得るのだ。照準が無限に存在するのだから、実戦なら離島の「防衛」はまず不可能である。
だとすれば真の意味で離島を防衛するなら、相手国との対立を非軍事的に、平和的に解決するしかないのだ。

有用性
それらの軍事的行動の有用性について。
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着上陸訓練もミサイル防衛も、実際に島を守るためには役立たないのなら、配備はしょせん陸上自衛隊の組織防衛のためでしかない。そのような既得権益の組織存続・拡大のために、他国との対立をあおり、沖縄を危険な戦争ゲームの場所にするのは許されない。
そんな効果のない軍備をして喜ぶものはだれか。オトナたちの素朴な「子ども憲法論」の裏では、政治、軍事、産業界の巨大な利権がうごめいているのである。

- 2015/05/15 -




軍備(軍事)戸締り論(cb_0087)
押しつけ憲法論(cb_0091)



琉球新報の書いているような「脱・子ども憲法論」は、ナチスの手口をマネして憲法を破壊し、戦前回帰をめざす安倍軍事オタク独裁政権が目の敵にするのは当然である。愚民党、いや失礼、自民党内では「マスコミを懲らしめる」「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などという憲法感覚が皆無のヤカラが大きな顔をして出てくることになる。

ところで、表現の自由に関する現在の憲法は次のようになっている。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
これが愚民党、いや失礼、自民党の憲法改正案では次のようになっている。
(表現の自由)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
安全保障問題はもちろん国論を二分するような重要問題が「公益及び公の秩序を害する」とされて、言論の自由が規制される危険が出てくる。そして、結果的には政府の主張だけが「表現の自由」として保護されることになる。政府にとって邪魔な意見を「こらしめる」ために、すべて「公益及び公の秩序を害する」として圧殺することができる。愚民党、いや失礼、自民党がそれを狙っていることは明白である。まさに戦前回帰である。
- 2015/06/27 -