指定廃棄物の最終処分

朝日新聞(2016/02/24)に「どう思いますか」というタイトルで、栃木県のI氏の「指定廃棄物は福島で管理を」という投書(要旨)に対する投書を4通紹介しているのが目にとまった。問題になっている「指定廃棄物をどこで処分するか」という論点だけに絞ると、その要点はだいたい次のようになる。

資料


社会問題には正解はないが

原子力発電所にからんでは、いわゆる交付金を始めとして多額の「原発マネー」が地元の自治体や地元民に流れていることはつとに指摘されている。事実として「原発ゆえの厚遇」が存在することは歴然としている。そういう「厚遇」があるから、「恩恵享受 地元負担やむなし」という意見が出てくる。同様に「指定廃棄物は福島で管理を」というのも発想の根本は「厚遇」に注目したものである。

原子力発電所と敷地、建物、従業員数などが同程度のメーカーの工場が進出してきた場合とを比べて、原発もメーカーの工場も同等の扱いがなされていれば、すなわち「原発ゆえの厚遇」がなければ、この問題の解決は「立地自治体に押しつけダメ」ということは説得力をもつだろう。しかし、現状では、立地自治体以外の自治体から見れば、今まで何の恩恵もなかったのに負担だけを押しつけられるということになってしまう。

福島は好き好んで原発を受け入れたのではない」というのは福島県人としては「さもありなん」という意見である。しかしこれは「他人は知らぬが、オレはそんなことを頼んだ覚えはない」という個人的な心情にすぎない。福島(県民)としては基本的には原発支持のはずである。「東京電力福島第1原発事故後2回の国政選挙はいずれも原発維持に傾く自民党が圧勝した」(毎日新聞2014/12/11)という事実はいかんともしがたい。この積極的な意思表明の結果からみれば、「陰に陽に強制された」などとはとても言えないはずである1)

1) 原発事故の補償金を長く受け取るために原発を支持しているという面もあるようである。補償金を出している東京電力(とその背後の国)は「金づる」としておくほうが都合がいい。

となると、原発のもつ危険性の代償として交付金などの恩恵を受けていると見るのがやはり妥当だろう。問題は、その交付金などの恩恵がどの程度の危険性までカバーするものかということになる。しかし、原発の安全神話の刷り込みによってこの問題は今まで等閑視されてきたものである。諸悪の根源はこの点にあるともいえる。

当の福島県民にしてもそんなことは考えたこともなかっただろう。事故が起こってから初めて「そんなはずではない」とあわてふためく。これは原発神話の弊害であり、原発についての正確な情報を周知してこなかった行政側の責任も大きい。しかし、原発にからむニュースを過去から見ていけば、確かに僻地に危険な物を押しつけたという面もあるが、それ相応の代償も得てきたはずである。ある程度までの被害は受忍すべきものであると思われる。

とはいえ、その危険性の代価の中には「郷土を奪われた」ことまでは入っていなかっただろう。結局は、どの程度で線引きするかになる。少なくとも、マンションは作ってもよいが、トイレは不潔だからそこには作らせない、というようなことは言えないだろう。福島で出たゴミは福島で処理する。それでいいのではないかと思う。


もっと驚いたこと

この発端になった栃木県のI氏の投書に対して、次のようなことが書かれていた。この方が「驚き」が大きい。
参考
茨城県のY氏
ご投稿のような意見を議論してこなかったのは、政府やマスコミの怠慢です。事故後の立地自治体の惨状を見て、そこに負担をかける議論を避けていたと考えざるをえません。
宮城県のM氏
とにかく情に流されがちな風土の中で、「角が立つ」意見を勇気をもって投稿されたことに敬意を表します。
庶民レベルでも「言論の自由」は「陰に陽に」圧迫されてきている現状に慨嘆するばかりである。日本人に多い「物事をはっきり言わない」古風で奥ゆかしい性格は社会問題の真剣な議論の阻害要因にしかならないことを実感する。

もっとも、実名が出ることが多い新聞の投書欄とはちがって、匿名が多いインターネットの世界ではこんな程度のことはもう普通のことで、逆に「言いたい放題」である。この投書に出てきた人たちはほとんどが60代と70代の御老人がたである。老人にとってはこういう「ストレートなものの言い方」は抵抗感が強くて「勇気」が必要になる。比較的若い人が主流のインターネットとはまた違う「文化圏」を形成しているようである。

- 2016/02/25 -





福島の問題/過去に書いたこと