金沢の廓

西(にし)東(ひがし)と右(みぎ)左(ひだり)が付く地名について、世間には、「東寺」「西寺」、「左京」「右京」など二つツインで並び称されるものが多い。特に、歴史的な事物に関してはそれが顕著である。しかし、そのどちらもが円満に発展し存続して現在に至る例は少ないようである。

空海で有名な京都の「東寺」は巨大な寺院として現存するが、「西寺」は現存しない。唐の長安を模して作られた平城京や平安京の「左京」「右京」という区分けも、その当時の「左京」ばかりが発展して現在の奈良市や京都市の中心部分を占めているのに対し「右京」は衰退していった。

こういうふうに分岐した原因はいろいろ考えられる。たとえば、地勢的・環境的な要因があった、交通や生活の便がよかった1)、時の権力と結びついてその庇護を受けた、戦禍を免れた、小説・物語などに取り上げられて知名度が上がった、それらに便乗して観光業者や商人が活発に活動した。こういう様々な理由によって、一方は発展し、他方は衰退していったものであろう。
NOTES
1) 京都の場合、右京は桂川の湿地帯にあったために生活上の不便がはなはだしく衰退したというのが歴史の通説であるらしい。
なお、北畠親房の神皇正統記によれば、京都の都について、これが「四神相応の地」だと書かれている。四神相応の地とは、四神の形にあてはまる良い地勢の土地のこと。すなわち、東に川、西に街道、南に窪地、北に丘陵ののある土地をいう。平安京はこの地勢を有するものだとされている。

金沢の「西の廓」「東の廓」も、こういうパターンにあてはまるようである。現地での詳しい事情はわからないが、歴史的に由緒はあっても、「西の廓」は「東の廓」ほどには知られていないようである。また東西の中ほどにもうひとつ廓があったようである。ちなみに、現在は「東の廓」は「ひがし茶屋街」、「西の廓」は「にし茶屋街」と呼ばれているようである。

「東の廓(ひがし茶屋街)」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、五木寛之の「朱雀の墓」の舞台になったことでも有名である。また、「ひがし茶屋街」は尾山神社と卯辰山の中間ほどにあり、観光客が行きやすい場所にある。これに対して、「にし茶屋街」は妙立寺(忍者寺)の西側にあるが、観光スポットからはやや外れているようである。

ところで、過去いろいろな言葉狩りがあったが、「廓」がその対象になったのかどうかは知らない。しかし、金沢の「東の廓」は今では「ひがし茶屋街」と名称が変わって、「廓」のもつ隠微なイメージが払拭されている。

歴史的な遺産を残すとすれば「廓」だが、今その地で生活する人にとっては暗いイメージを変えたいということで、改称されたようである。

その昔、まだ「東の廓」と言われていたときは、こんな所にくる観光客などは一部の好事家だけで、それ以外は訪れる者もなかった。道幅も狭く、舗装もされず、昔ながらの茶屋風の家が軒を並べているだけで、いかにも人が避けていきそうな陰気な所だった(写真)。

金沢出身の作家徳田秋聲の名作「黴(かび)」ではないがカビ臭さが一面にただよっていた。かろうじて各家々の前に出ている「表札」のようなもの(赤い服の人物-私だが-の斜め右上に見える白い四角柱)に「ひがし」とだけ小さく書かれているのが一般民家との違いだった。

今は「ひがし茶屋街」になって、石畳の広い道に変わり、しゃれた店もいろいろできて、昔の面影はほとんど消え、現代風の観光化に成功したようである。



ひがし茶屋街(Mapion地図)
にし茶屋街(Mapion地図)
徳田秋聲記念館(Mapion地図)

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